第3次朝鮮共産党
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第2次朝鮮共産党の弾圧後、北星会系の安光泉(朝鮮語版)やソウル青年会(ソウル派)の金錣洙(朝鮮語版)らによって社会主義陣営の統一が図られ、1926年12月に朝鮮共産党が再建された。朝鮮共産党の責任秘書には金錣洙が就き、共青の責任秘書に高光洙が就いた。第3次朝鮮共産党ではマルクス・レーニン主義による指導が掲げられたことから「ML党」とも呼ばれる。青年運動に影響力を持っていたソウル派の合流は、社会主義系の青年運動の強化発展に重要な意味を持った。 「ML党」に参加した主要メンバーのうち、安光泉は東京において一月会(北星会が改称)で活動していたが朝鮮に帰国したものであり、ほかに河弼源・金俊淵・崔益翰らもこのグループに属する。ソウル派からは崔昌益・李仁秀が参加、ほかに上海派の韓偉健・梁明らが合流した。 第3次朝鮮共産党は内部に派閥対立を抱え、1年余の存続期間の間に朝鮮共産党の責任秘書は金錣洙→安光泉→金俊淵→金世淵、共青の責任秘書は高光洙→梁明→河弼源→金哲と目まぐるしく交替した。党内部にこうした困難を抱えながらも、新幹会・槿友会に積極的に参加し、民族主義者との統一戦線の結成を図った。しかし、1928年2月に官憲の弾圧によって組織が再び壊滅した(第3次朝鮮共産党事件)。 なお、ML党から排除された李英(朝鮮語版)らは、1927年12月にソウルの春景園で「朝鮮共産党」を結成した。このグループは「春景園共産党」と呼ばれるが、官憲の弾圧により1928年6月に壊滅した。
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