第2次朝鮮共産党
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/01 15:43 UTC 版)
朴憲永らが検挙されたのち、姜達永(朝鮮語版)(当時の朝鮮日報晋州支局長)を中心として1926年2月に組織が再建された(第2次朝鮮共産党)。共青責任秘書には権五卨が就任した。 第2次朝鮮共産党は海外在住の同胞の間に組織を広げるべく、日本に「日本部」(のちに日本総局)、満洲に「満洲総局」を設置した。また、20名余の朝鮮共産党員・共青同盟員を東方勤労者共産大学(クートベ)に送り出している。 姜は労農団体の指導に当たり、また民族主義者との共同戦線を目指した。1926年4月26日に大韓帝国最後の皇帝純宗が死去すると、第二の三・一独立運動を展開しようとして天道教に接近、学生を動員しビラ10万枚を配布しようとした(6・10万歳運動)。しかしこれが発覚し、姜達永・権五卨ら幹部が検挙、弾圧された(第2次朝鮮共産党事件)。第1次・第2次共産党を主導した火曜派はほとんどが壊滅し、拷問による死者をはじめとする多くの犠牲を出した。
※この「第2次朝鮮共産党」の解説は、「朝鮮共産党」の解説の一部です。
「第2次朝鮮共産党」を含む「朝鮮共産党」の記事については、「朝鮮共産党」の概要を参照ください。
- 第2次朝鮮共産党のページへのリンク