朝鮮共産党日本総局
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金若水らの北星会(1925年1月、一月会に改編)に見られるように、日本においては朝鮮人留学生の社会主義運動組織が作られていた。 1922年の信濃川朝鮮人虐殺事件発覚は、低賃金や過酷な環境での労働(タコ部屋労働)を強いられた在日朝鮮人労働者の状況に対する朝鮮人・日本人社会主義者の関心を集めた。1922年、東京朝鮮労働同盟会が結成される。1925年2月には、在日朝鮮人労働団体が結集して在日本朝鮮労働総同盟(在日朝鮮労総)が結成されている。 第2次朝鮮共産党は1926年4月に「日本部」の結成を試みたが、弾圧により頓挫した。組織化が実現したのは第3次朝鮮共産党のもとでの1927年5月のことであり、朝鮮共産党日本部(責任秘書:朴洛鍾)と高麗共産青年同盟日本部(責任秘書:韓林)が結成された。党の「日本部」は1928年4月に「日本総局」と改められた。 党日本総局責任秘書はのちに金天海が務め、共青日本部責任秘書を一時期印貞植(朝鮮語版)が務めている。 社会主義者たちは在日朝鮮人運動の主流を占め、日本民衆との連帯を重要視した。1929年頃より「一国一党原則」が強調され、在日朝鮮労総が日本労働組合全国協議会(全協)に解消されるなど、朝鮮人組織は日本人組織に吸収されることとなった。このことは在日朝鮮人運動に混乱を招いた。朝鮮共産党日本総局は1931年に解散し、金天海らその多くは日本共産党朝鮮人部で活動することになる。
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