裁判と戦時下の活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/19 05:57 UTC 版)
同年11月25日午前10時30分、東京地方裁判所で、金天海、李雲洙、朴得絃、金漢郷、金容杰、朴得杰、朴相勗、金正泓らの公判が開かれた。金容杰は「コミンテルン万歳」を叫び、朴得杰、朴相勗は朝鮮語で、「日本共産党と被告会議を開催して、完全に公判闘争を敢行した」と叫んだ。李雲洙が革命歌を歌い始めると、被告全員も起立して唱和した。朴得絃が全員を静かにさせて、裁判長に、金漢郷を議長とした、被告たちの公判会議の開催を要求した。裁判長の制止を振り切って、金天海ら被告たちは次々に発言した。同日11時20分、裁判長は、裁判の公開を禁止し、分離裁判を行なうことを明言した。金天海ら被告全員が抗議したが、力ずくで退廷させられた。同日午後、金天海らの分離裁判が始まった。金天海は、「朝鮮語禁止は、日本帝国の暴圧だ」「何故、自分たちの保釈が認められないのか」「共産党被告はコミンテルンの支部として闘っているから、日本・中国・朝鮮の被告を全部統一して裁判しろ」と主張した。 同年12月8日に第2回公判が開かれ、最初は「統一審理・公開裁判」で行なわれたが、第1回公判と同様に混乱したため「分離裁判・非公開裁判」となった。 1931年3月21日、金天海は懲役5年の実刑判決を受け、控訴した。同年10月30日、控訴審公判第1回準備手続の法廷で、看守、巡査、憲兵の退席を要求した。弁護士の介入により、警備が緩和された。 同年10月、幹部の大量検挙により、朝鮮共産党日本総局が解体した。同年、全協組合員1万人中、4000人が朝鮮人だった。 その後、控訴審公判第2回準備手続は、金漢郷を議長とした被告会議となり、各被告の陳述内容が決定された。金天海は、公判常任委員に選ばれ、党の労働農民運動の活動内容を陳述することになった。 1932年4月11日、朴相勗が獄中で暴行されて死亡した。同年4月15日、朴相勗の葬儀委員13人が、葬儀デモを協議した。協議中に、警官隊に踏み込まれ、葬儀委員13人全員が検束された。 同年8月30日、控訴審判決があり、金天海の懲役5年の実刑判決が確定した。金天海は市ヶ谷刑務所に服役した。 1934年5月、李雲洙が出所した。同年7月、李雲洙は朴台乙と再会した。朴台乙は東京江東区で、全協とは異なる独自の労働組合結成を進めていた。李雲洙は、朴台乙に、合法的な朝鮮語の新聞を作ることを提案し、賛同された。朴台乙は、職場や地域に根付いた合法的な革命運動・労働運動を考えていて、社会大衆党を含んだ統一戦線を目指すべきだと思っていた。 1935年、金天海は市ヶ谷刑務所から出所した。服役中に結核を患い、しばらくは病床に伏せていた。その後、李雲洙が訪ねてきて、金天海に合法的な朝鮮語の新聞を作ることを提案した。金天海は、李雲洙の提案に賛同した。同年11月初旬、横浜市井土ヶ谷の金天海の同志の家で、金天海、李雲洙、朴台乙ら5人は、朝鮮語新聞を通した再組織化の方針を決定した。新聞では、在日朝鮮人の身近な生活問題を採用して宣伝し、新聞に寄せられた要求を纏め上げて、運動を起こしていくことになった。 同年12月16日、合法的に「朝鮮新聞社」が設立された。「在日朝鮮人労働者の文化的向上を目指し、在日朝鮮人労働者に社会的・階級的・民族的自覚を喚起させること」を目的とした。社長兼編集局長に李雲洙、営業局長に朴台乙、資金と読者獲得と新聞を通じた支局の組織化担当に金天海が就任した。その後、編集局に金斗鐙が参加した。同年12月31日、『朝鮮新聞』創刊準備号が発行された。新聞では、発行、配布、集金、拡大を読者参加型にした。 その後、金天海は「愛国者金天海先生出獄歓迎会」を各地で開催してもらうように手配し、会を通じてオルグ活動を行なった。特高警察2人が必ず金天海に付いて、監視した。金天海は、神奈川県、静岡県、長野県、愛知県、岐阜県、京阪地方を回った。大阪で、金文準(1894-1936、済州島出身、水原高等農林学校卒)に、金が発行していた『民衆時報』と『朝鮮新聞』との合同を了承されたが、その後、金文準が病死し、合同は実現しなかった。『朝鮮新聞』は毎月2回の発行で、毎号4000部を発行した。 金天海は、名古屋市で朴広海と再会した。朴広海は、三信鉄道争議 を指導した後、名古屋合同労働組合に所属していた。 1935年7月、コミンテルン第7回大会で、「反ファシズム統一戦線路線」が採択された。1936年2月、野坂参三と山本懸蔵は連名で『日本共産主義者への手紙』を発表し、人民戦線樹立のための運動を訴えた。金天海は、人民戦線を実践しようと考えた。また、『朝鮮新聞』は、部落細胞を作り、全ての自主組織に働きかけをし、朝鮮人部落からの信頼を得ることを第1とし、セクト性の打破を実践することになった。『朝鮮新聞』は、東京に11支局、神奈川・長野・愛知・石川・富山・新潟・奈良の各県に10支局を開設し、静岡・岐阜・京都・大阪・兵庫・千葉・福島などにも読者組織を立ち上げた。 同年、朴広海は岐阜市で藤原巳二(本名は朴景順)とともに、岐阜市市議会議員の李相雲を、地酒の「白鹿」と牛肉を携えて訪ねた。李相雲は在日朝鮮人で、元々は在日朝鮮労総岐阜責任者だったが、転向して内鮮融和派となり、融和組織・正和会会長だった。朴広海は李相雲に、「正和会の名称を貸して欲しい」「正和会の名前で、高山線沿線に正和会の支部を作りたい」と頼んだ。李相雲は朴広海の頼みを了承した。朴広海は、高山線沿線の飯場や朝鮮人部落に、正和会加茂支部(120人参加)、正和会川辺分会(約80人参加)、正和会葛牧分会(約50人参加)、正和会丹生班(156人参加)などを作ると、夜学会を始めた。それから、朴広海、正和会支部を拠点にして、岐阜県下呂市焼石の道路工事現場での労働条件改善闘争や川辺の首切り反対闘争、西白川村の水力発電工事現場での日常品販売価格減額闘争などを開始した。 同年5月、金天海は滋賀県大津市に入り、紡績工場でオルグ活動を行い、その後内鮮融和会に行き、同会副会長が日本陸軍中将から額縁を貰ったことを糾弾した。また、盲腸炎を患い、大津市で説教カンパを得て大阪大学病院に入院。同年7月29日に手術を受けた。一方、同年7月10日、『朝鮮新聞』の中心メンバーが、「新聞を通じて共産主義を宣伝し、日本共産党の目的遂行のために活動した」として逮捕された。同年7月31日までに、李雲洙、朴台乙、金斗鐙が検挙された。 同年8月3日、大津市の内鮮新和会幹部に独立思想を説いたことを脅迫と見なされたこと、また、愛知県での「愛国者金天海先生出獄歓迎会」で講演した内容が警察にもれ、共産主義宣伝とされたことで逮捕された。同年12月5日、朝鮮人の人民戦線運動家が一斉に検挙された。朴広海と朴景順も、「合法組織を偽装して共産主義非合法グループを組織し、『朝鮮新聞』を通じて共産主義を宣伝した」として逮捕された。 1937年11月1日、金天海は起訴された。懲役4年の判決を受けて滋賀県の膳所刑務所に服役した後府中刑務所に移送され、独房生活を送った。その間、1941年3月に治安維持法が改正され、予防拘禁制度ができたことにより、共産主義から転向しない限り、刑務所から釈放されないことになった。金斗鐙は共産党から転向し出獄したが、金天海は転向を拒否した。 1942年9月、刑期が満了したが、共産主義からの転向を拒否していたため、予防拘禁制度により東京・豊多摩刑務所の東京予防拘禁所に送られた。このころ肺結核が悪化し、腸結核に進行していて、歩くこともできなかった。山辺健太郎が金天海を介抱した。 1944年12月、朝鮮総督府から創氏改名の通知が来た。金天海は司法大臣宛に抗議の手紙を出し、改名を拒否した。
※この「裁判と戦時下の活動」の解説は、「金天海」の解説の一部です。
「裁判と戦時下の活動」を含む「金天海」の記事については、「金天海」の概要を参照ください。
- 裁判と戦時下の活動のページへのリンク