裁判と敗戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/18 05:30 UTC 版)
裁判は1938年(昭和13年)8月10日に京都地方裁判所で開廷して以来、清瀬一郎、高山義三、小山昇、林逸郎を始め多くの弁護士による弁護団が形成され、激しい法廷闘争が行われた。検察は、大本は国体を転覆し世界覆滅を計る陰謀結社、王仁三郎は皇統を否定し世界の独裁者とならんとした「弓削道鏡以来の逆族」と主張する。1940年(昭和15年)2月29日の第一審判決において、庄司直治裁判長は検察側の主張を認めて被告55人に有罪(起訴61人中死亡5人、心神喪失公判停止1人)、内訳は王仁三郎に無期懲役、他は2 - 15年の懲役を言い渡した。控訴審は同年10月16日に始まり、1942年(昭和17年)まで続いた。高野綱雄裁判長は王仁三郎よりもすみの答弁に感心している。また精神障害に陥った出口日出麿の検事調書・予審判事調書が整然としていたため作為が疑われ、大本側は公文書偽造で判事を告発(不起訴)、裁判所も調査のため警官や検事を証人として召喚するなど、裁判全体に大きな影響を与えた。 1942年(昭和17年)7月31日、高野綱雄裁判長は判決文の中で「大本は宇宙観・神観・人生観等理路整然たる教義を持つ宗教である」として、治安維持法関係全員無罪の判決を言い渡した(不敬罪のみ有罪が残る)。検察の調書の信頼性が低いことも判決文で指摘された。本判決を下した高野について、土井一夫(陪席判事)は「高野裁判長はいい裁判長でした。公平だし、名利にとらわれなかった」と回想した。高野の下で長く書記をつとめた豊田真三は「高野さんは立派な方でした。あんな方は一寸ないでしょう。あれだけ世間でやかましかった事件を無罪にしたのには、勇気がいります」とも述懐している。また田村千代一(陪席判事)は「予審調書を読んだとき、どの調書もまったく同じことで、これはおかしいと思った」とまずはじめに疑問をいだいたといい、判決については、「昭和3年3月3日に国体変革を目的とする結社を組織したということが非常に無理で、結局それで大本が無罪になった。無罪の判決としてはくわしすぎるかもしれないが、あれほど力を入れて起訴した事件で、無期懲役まで言渡しているのを無罪にするのであり、昭和17年といえば大東亜戦争の始まった後だから、あれだけの理由を書いておかないと世間が納得してくれないから……」と回顧した。 第二審で有罪とされた不敬事件については、『霊界物語』や「瑞祥新聞」に掲載せられた神諭の一節と、『霊界物語』や『昭和十年日記』に掲載された王仁三郎の歌六首が、皇室にたいする不敬と判定されたものである。和歌は"日の光昔も今も変らねど東の空にかかる黒雲"“言さやぐ君が御代こそ忌々しけれ山河海の神もなげきて"という内容であった。
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