裁判と懲役
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/17 16:38 UTC 版)
張仁煥と田明雲が互いに共謀したと証明するには証拠が不十分だったので、田明雲は6月に放免され、張仁煥は単独犯の被告として法廷に立たされた。 韓国系団体は彼の弁護人として3人の弁護士を雇い、その内の1人ネイサン・コフランは最終的にこの件をプロボノとする、すなわち無償弁護することに同意した。裁判で、コフランはアルトゥル・ショーペンハウアーの"patriotic insanity(愛国的な狂気)"の理論を用いて、心神喪失により無罪だと主張する計画を立てた。 張仁煥の裁判は本来、7月27日にサンフランシスコの上級裁判所で始まる予定だった。だが、裁判当日、裁判長のキャロル・クック(英語版)は判事室でコフラン並びに韓国系団体の数人と会談し、その結果裁判は1ヶ月遅れた。同年12月23日、陪審員は張仁煥を第二級謀殺の罪で有罪とした。張仁煥自身は刑務所に収監されるよりも私刑を望むと通訳を通じて主張したが、サン・クエンティン州立刑務所で懲役25年に処された。収容中、彼は大同日報に『怨恨が骨髓に染み込むと法に背くことでも躊躇なく行うものだ、国家の公敵や盗賊への対応に公法が入り込む余地はない』(中央日報日本語版)と事件の動機を述べた。1919年、彼はわずか10年在所しただけで釈放された。
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