そうし‐かいめい〔サウシ‐〕【創氏改名】
創氏改名
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/04 14:03 UTC 版)
創氏改名(そうしかいめい)は、日本統治時代の朝鮮における統治機関である朝鮮総督府が、1939年(昭和14年)制令十九号(創氏)[注釈 1]および二十号(改名)[注釈 2]で、本籍地を朝鮮に有する日本臣民(以下朝鮮人という)に対し、新たに「氏」を創設させ、また「名」を改めることを許可した政策。儒教文化のために女性は結婚後も他所者として夫や子供の「姓」には加われなかったが[1]、個々の判断で決めた新たな「氏」において夫婦一致させることが義務付けられた。約8割が日本風の「姓」で「氏」を創設したが、金や朴など従来の「漢姓」を夫婦の「氏」とすることが出来た。
注釈
- ^ 昭和14年制令第19号(朝鮮民事令中改正の件)朝鮮人戸主は本令施行後六ヶ月以内に新に氏を定めてこれを府又は邑面長に届け出づることを要す 前項の規定による届出をなさざるときは本令施行の際における戸主の姓を以って氏とす
- ^ 昭和14年制令第20号(朝鮮人の氏名に関する件)第一条 自己の姓以外は氏として之を用ふることを得ず 但し一家創立の場合に於いては此の限りにあらず 第二条 氏名は之を変更する事を得ず 但し正当の事由ある場合に於いて朝鮮総督の定むる所に依り許可を受けたる時は此の限りにあらず
- ^ 日本でもかつては夫婦別姓が基本だった。ただし日本では、逆に氏が血統を意味している(源氏・藤原氏など)。
- ^ 金英達は自著『創氏改名の研究』の中で1940年4月22日付の法務局通牒(7)の文章を部分引用し、林、柳、南、桂などの日本風の氏について届出があった場合でも「戸籍窓口の実際においては、そうした創氏届は受理しなかったことが推測される。」とした。しかし部分引用した原文の末尾には、「(それらの氏の人から)届出があった場合は受理しろ」と書かれており、金英達はその部分を除外して著書に引用し、推論を展開していた。実際にそれらの氏は、そのままの氏で受理されている。事例:南啓龍が南と設定創氏(1940年(昭和15年)6月17日朝鮮総督府官報第4020号)、柳時煥が柳に設定創氏(1940年(昭和15年)8月3日朝鮮総督府官報第4061号)、林龍俊が林に設定創氏(1940年(昭和15年)8月31日朝鮮総督府官報第4085号)など。
- ^ 例外として、李鍝公などの王公族は、皇族と同様に戸籍法令の適用を受けなかったため、創氏改名政策の対象ではなかった。
- ^ 同姓同名による不便
- ^ 朝鮮民事令改正公布(1939年11月10日)に際しての南次郎総督談話「本令〔朝鮮民事令〕の改正は申す迄もなく半島民衆に内地人式の「氏」の設定を強要する性質のものではなくして、内地人式の「氏」を定め得る途を拓いたのであるが、半島人が内地人式の「氏」を称ふることは何も事新しい問題ではない。」(朝鮮総督府官房文書課編『諭告・訓示・演述総攬』1941年、676 頁)
- ^ 例えば朝日新聞には、前日の衆議院予算総会における朴春琴代議士と米内内閣閣僚との質疑応答が掲載されている[8]。
出典
- ^ 「儒教社会の女性たち」p27,岸辺成雄、加納喜光,評論社,1977年
- ^ 『「創氏改名」の実施過程について』朝鮮史研究会会報 第154号、2004年1月発行
- ^ a b c d 朝鮮の姓名氏族に関する研究調査 P.489-491 朝鮮総督府中枢院 1934年
- ^ 水野直樹 2008.
- ^ 水野直樹「『創氏改名』の実施過程について」『朝鮮史研究会会報』154号、2004年
- ^ 水野直樹 2008, pp. 119–120.
- ^ 『昭和一五年前半期朝鮮思想運動概況』
- ^ 「半島の志願兵制 将来は海軍も実施」『大阪朝日新聞』神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 議会政党および選挙(45-137)、1940年2月16日。
- ^ “麻生太郎氏の語録”. 共同通信. (2008年9月22日). オリジナルの2015年8月29日時点におけるアーカイブ。 2017年2月1日閲覧。
- ^ “一斉に「妄言」と反発 麻生氏発言で韓国与野党”. 共同通信. (2003年6月2日). オリジナルの2014年7月28日時点におけるアーカイブ。 2017年2月1日閲覧。
- ^ “「韓国国民におわび」表明 創氏改名発言で麻生氏”. 共同通信. (2003年6月2日). オリジナルの2014年7月28日時点におけるアーカイブ。 2017年2月1日閲覧。
- ^ “覆面座談会 永田町に巣食う媚中政治家たちの呆れた言動”. 別冊正論 第一号. 扶桑社 (2006年1月20日). 2013年5月24日閲覧。
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