朝鮮共産党の再建
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1945年8月15日、日本の敗戦により朝鮮は「解放」を迎えた。解放後初めて「朝鮮共産党」を称する組織を作ったのは、元共産党員の李英(朝鮮語版)・鄭柏・李承燁らで、8月16日にソウル市内の「長安ビル」において朝鮮共産党の結成を宣言し、李英を責任秘書とした。このグループを「長安派」と呼ぶ。 戦時期に潜伏していた朴憲永は、ソウルに姿を現すと朝鮮共産党再建準備委員会を結成した。ここから朴憲永グループを「再建派」と呼ぶ。長安派は朴憲永を指導者に迎えようとしたが朴憲永は拒絶、長安派共産党の正統性を認めず解散を要求した。結局長安派共産党は解散し、再建派に合流することとなった。1945年9月11日、朝鮮共産党が朴憲永のもとで再建されてソウルに本部を置き、朴憲永が党の総秘書となった。 再建された朝鮮共産党は、名目上は朝鮮全域にわたる組織であり、朝鮮人共産主義者を指導する唯一の前衛政党であった。しかし、それまで国外で活動しさまざまな背景を持つ共産主義者たちが次々に朝鮮に帰国することで事態は複雑なものになった。中国共産党の指導のもと中国本土で活動していた「延安派」、ソ連共産党の党籍を持ちソ連軍とともに入ってきた「ソ連派」、そして金日成ら満州の中国共産党の抗日パルチザンでのちソ連軍に編入された満州派」などである。これに対し、日本統治下の朝鮮にとどまり続けた朴憲永らを「国内派」という。北半部を占領統治するソ連の意向もまじえ、朝鮮の共産主義運動の主導権をめぐる抗争が以後繰り広げられることになる。 ソウルの朝鮮共産党は当面の革命段階をブルジョワ民主主義革命と規定して民族統一戦線を志向し、朝鮮人民共和国などの運動にも中心的な役割を果たした。朝鮮共産党は当初は米軍政に対しても協調的であった。1945年12月28日にモスクワ三国外相会議(米国・英国・ソ連)で朝鮮の信託統治案が明らかになると、金九(大韓民国臨時政府グループ)ほかの諸党派とともに信託統治反対(反託)で一致するが、1946年1月2日に朝鮮共産党は突如信託統治支持を表明、3日に三国外相会議決定支持大会を開催し、反託の気運の中で混乱と失望をもたらした。
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