朝鮮併合時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 16:55 UTC 版)
1910年から1945年までの朝鮮半島併合期、朝鮮及び清国の間島においては裁判所構成法や弁護士法は施行されず、間島の朝鮮人については1909年の日清協約により、いったんは清国の法律に従い訴訟事件では日本側領事館員の立会いや覆審請求権が認められるとされたものの(第4条)、翌1911年には、死刑を含め1年以上の懲役または禁錮にかかる罪は、日本帝国領事官の予審を経て朝鮮総督府裁判所が裁判を行うとする規定が置かれ、大日本帝国は裁判管轄を拡大した。 同年1910年、国内における天皇暗殺未遂の幸徳事件では検察官平沼騏一郎が訴追を行ったが、これは「暗黒裁判」として今でも批判がある。1911年(明治44年)1月18日に幸徳秋水を含む24名が死刑を言い渡された。1913年4月には、検事総長平沼騏一郎と司法大臣松室致が大審院関連法を改正し、計229人の判事・検事を一挙に休退職とし、443人にのぼる異動を発令するという司法人事事件もあった。 1910年(明治43年)~1942年(昭和12年)の間で第5次間島共産党暴動により、治安維持法(殺人や現住建造物放火等との併合罪)により9名が死刑執行されているが、その殆どが殺人や強盗殺人を犯したことにより、死刑執行されている。 また当時の刑事裁判には全面的に予審制度が導入され、起訴・不起訴を決定するのは裁判所であったが、1922年(大正11年)の刑法改正ではドイツで導入されていた起訴法定主義は何も議論されず、起訴便宜主義が明文化され、検察官の裁量のみにより起訴内容や不起訴が決定されるようになった。その後、1923年の虎ノ門事件では難波大助が死刑となり、朴烈事件の朴烈は死刑判決を受けたが恩赦された。 1932年(昭和7年)、桜田門事件では李奉昌が死刑となったが、5月15日に犬養毅首相を暗殺した海軍将校らは1人も死刑になっていない。 1936年(昭和11年)の二・二六事件については、翌年にかけての裁判で、北一輝を含む18名に死刑が言い渡された。 これとは別に、中国共産党武装勢力(共匪及び抗日パルチザン)に属する朝鮮人に対して、朝鮮国外で検挙された場合はその場で射殺されることが多く、1932年(昭和7年)には2,485名中509名が、1933年(昭和8年)には1,226名中、509名が射殺されている。1934年には射殺は12名に減少しているが、代わりに軍隊への引渡しが増えており、正当な司法手続きを経ずに軍隊内で「処分」された可能性がある。 日本統治時代の朝鮮での死刑執行数は、以下の表のとおりである。また、死刑執行方法は絞首刑である。 年総数国籍別執行場所備考朝鮮人日本人朝鮮・日本人以外南部朝鮮死刑執行(西大門と大邱)北部朝鮮死刑執行(平壌)1910年(明治43年) 132 - - - - - 伊藤博文暗殺事件により3月26日に旅順監獄にて死刑執行された安重根は、関東都督府旅順地方法院で裁かれたため、含まれていない。そして安重根死刑執行5か月後に韓国併合により、朝鮮半島は日本の植民地となる。 1911年(明治44年) 94 94 0 0 68 26 1912年(大正元年) 73 69 4 0 52 21 1913年(大正2年) 54 52 0 2 37 17 1914年(大正3年) 54 53 1 0 33 21 1915年(大正4年) 49 48 0 1 30 19 1916年(大正5年) 53 47 3 3 38 15 1917年(大正6年) 39 38 1 0 26 13 1918年(大正7年) 47 46 1 0 22 25 1919年(大正8年) 11 - - - - - 三・一独立運動発生。この独立運動によって死刑判決を受けた者はいない。また、有期懲役の判決を受けた者でも15年以上の者はいない。そして、大正8年度朝鮮総督府統計年報より、この独立運動の影響により前年に比べて、6ヵ月以上1年未満と1年以上3年未満の有期懲役で新たに監獄に入った者が前者で約1.6倍、後者で約2.0倍増加している。 1920年(大正9年) 36 28 1 7 16 20 1919年9月2日に起きた第3代朝鮮総督府政務総監斎藤実暗殺未遂事件を起こした姜宇奎がこの年の11月29日に西大門刑務所で絞首刑が執行された。 1921年(大正10年) 45 43 0 2 24 21 1922年(大正11年) 39 34 0 5 11 18 1923年(大正12年) 27 25 1 1 11 16 1924年(大正13年) 11 11 0 0 3 8 1925年(大正14年) 18 17 1 0 6 12 1926年(大正15年) 16 15 0 1 11 5 朴烈事件により、朴烈はその年の3月25日に死刑判決が下されたが、翌月の4月5日に「天皇の慈悲」と言う名目で恩赦が出され、無期懲役に減刑される。朴烈は、1945年10月27日まで受刑することとなった。 1927年(昭和2年) 25 24 0 1 15 10 1928年(昭和3年) 24 21 0 3 17 7 1929年(昭和4年) 27 26 0 1 21 6 1930年(昭和5年) 11 10 1 0 8 3 1931年(昭和6年) 13 13 0 0 9 4 1932年(昭和7年) 18 17 1 0 9 9 桜田門事件で李奉昌が10月10日に市ヶ谷刑務所にて絞首刑にて死刑執行される。また、上海天長節爆弾事件の実行テロ犯尹奉吉は石川県金沢市の三小牛山練兵場にて12月19日7時27分に銃殺刑によって死刑執行される。李奉昌は大逆罪を犯し日本国内の大審院にて、尹奉吉は被害者が軍人であったことから上海派遣軍軍法会議にて裁かれたため、含まれていない。 1933年(昭和8年) 22 20 0 2 14 8 第5次間島共産党暴動により、この年の12月20日に清津地方法院にて22人に死刑判決が下される。そのため、1933年(昭和8年)~1937年(昭和12年)の間で、治安維持法により死刑執行された者はこの暴動によるものである。またこの年の治安維持法による朝鮮男性の死刑執行は1人である。 1934年(昭和9年) 16 16 0 0 - - 治安維持法による朝鮮男性の死刑執行2人あり。 1935年(昭和10年) 14 14 0 0 - - 治安維持法による朝鮮男性の死刑執行2人あり。 1936年(昭和11年) 33 33 0 0 - - 治安維持法による朝鮮男性3人の死刑執行あり。 1937年(昭和12年) 21 20 0 1 - - 治安維持法による朝鮮男性1人の死刑執行あり。 1938年(昭和13年) 29 22 0 7 - - 1939年(昭和14年) 23 22 0 1 - - 1940年(昭和15年) 11 8 1 2 - - 1941年(昭和16年) 9 - - - - - 1942年(昭和17年) 30 28 2 0 - -
※この「朝鮮併合時代」の解説は、「日本における死刑」の解説の一部です。
「朝鮮併合時代」を含む「日本における死刑」の記事については、「日本における死刑」の概要を参照ください。
- 朝鮮併合時代のページへのリンク