ぼくれつ‐じけん【朴烈事件】
朴烈事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/15 07:09 UTC 版)
朴烈事件(ぼくれつじけん、パク・ヨルじけん)は、1923年に逮捕された朝鮮人無政府主義者の朴烈とその愛人(内縁の妻)でもある日本人の思想家の金子文子が皇室暗殺を計画したという大逆事件と、その予審中の風景を「怪写真」として世間に配布させて野党の立憲政友会が政府批判を展開したという付随する出来事。朴烈・文子事件とも言う。
- ^ 立松の次男は、売春汚職事件をスクープした読売新聞記者の立松和博である。
- ^ 怪写真と共に同封された怪文書では、「上品な春画写真」という表現が登場するが、現在みてもそのような印象は受けない。しかしやや見づらいが、朴烈は文子を自分の左の膝に腰かけさせただけでなく、左手で文子の乳房を「いじくっていた」とされ、非常にリラックスしている。これはそもそも大逆罪での予審であり、(胸をまさぐっていたかどうかは別にしても)態度は極めて不忠不敬であり、けしからんというのが世論であった。
- ^ 『朝日年鑑 大正16年』朝日新聞社、1926年11月、pp.29-30
- ^ 併せて震災手形の処理を巡り政府が特定の政商に肩入れしているという疑惑も追及された。詳細は昭和金融恐慌を参照。
- ^ 井上寿一『政友会と民政党』2012年、中公新書、p44
- ^ 美濃部達吉「国立国会図書館デジタルコレクション 恩赦の意義について」『現代憲政評論 : 選挙革正論其の他』岩波書店、1930年、200-205頁 。
- ^ 山田昭次『金子文子 : 自己・天皇制国家・朝鮮人』影書房、1996年。ISBN 4877142274。
朴烈事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/01 08:05 UTC 版)
詳細は「朴烈事件」を参照 1923年9月1日に起きた関東大震災の2日後、戒厳令下に朝鮮人が民衆によって私刑を受けた震災後の混乱期に、「保護検束」の名目で検挙されたアナキストの朴烈とその愛人である金子文子が、翌1924年2月15日に爆発物取締罰則違反で起訴され、1925年5月2日に朴が、5月4日に文子がそれぞれ大逆罪にあたるとされた事件。 1926年3月25日に死刑判決が下され、4月5日に恩赦で無期懲役に減刑されるが文子は特赦状を刑務所長の面前で破り捨てた。同年7月22日に栃木女囚刑務所で、文子は看守の目を盗んで縊死して果てた。同年7月には内閣転覆を狙った北一輝により、取調中に朴の膝に金子が座り抱擁している写真が政界にばらまかれ、獄内での待遇が数か月政治問題化した。朴は敗戦後の1945年10月27日に出獄し、いまや徹底した反共思想の持ち主であった朴は在日本朝鮮人連盟(朝連、朝鮮総連の前身)への参加を避け、1946年10月に韓国民団の前身となる在日本朝鮮居留民団を結成し、初代団長を1949年2月まで勤めた。帰国後李承晩政権の国務委員を勤めるが朝鮮戦争の際、北朝鮮へ連行。後に南北平和統一委員会副委員長として活動した。
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