怪写真の浮上
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/27 02:56 UTC 版)
だが、事件はこれで終わりではなかった。7月29日になって予審中に朴烈と文子が抱き合っている写真(右)が政界や報道関係に公開される。これはもともと刑死を覚悟した朴烈が母に送るために撮らせたというが、写真の存在を知った西田税が、第1次若槻内閣の転覆を計画する北一輝の意向を受けて入手・公開したものであった[要出典]。これに世論は騒然とし、司法大臣の江木翼が暴漢によって汚物を投げつけられる事件も発生して、立松懐清は責任を取る形で免官された。 事態を重く見た衆議院では、野党立憲政友会の森恪や小川平吉らが取り締まりの甘さと国体観念の薄さを材料に、若槻内閣(与党憲政会)を追及する姿勢を見せて帝国議会は空転し、1927年1月18日には立憲政友会・政友本党が内閣弾劾上奏案を上程した。 ところが前年の暮れ(1926年12月25日)に大正天皇の崩御という事態を受け、国民が喪に服している時に政争とは如何なものかという意見が与野党から寄せられ、1月20日に若槻禮次郎(内閣総理大臣・憲政会)・田中義一(立憲政友会)・床次竹二郎(政友本党)が急遽、議会内で3党首会談を開き「政治休戦」が成立、世論もこれを支持したために北や西田の期待した倒閣の思惑は外れることになった。 しかし裁判の中で、写真の撮影日が政友会を含む護憲三派を与党とする加藤高明内閣時の1925年5月2日であり、若槻内閣に責任がないことが判明したにも関わらず、加藤高明内閣で法相を務めた小川平吉は田中内閣の鉄道相となっても憲政会を攻撃し続けて政争の具とした。
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