怪力でスピード出世
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/06 02:42 UTC 版)
入門後は持ち前の力強さ、とりわけ右腕の強さを武器に新十両・新入幕・新三役で当時の最年少記録を樹立、年少記録が話題になった最初の力士でもある。入幕までに全勝を5回(内3回は優勝)を記録するなど下積みの段階では図抜けた存在であった。また、当時のアメリカの映画スターだったゲイリー・クーパーにも喩えられた近代的な容貌と筋肉質の体型のために人気も上々で、武藏山を題材にした応援歌まで作られ、特に朝潮供次郎との取組(1930年1月場所千秋楽)は松内則三による実況で両国国技館を18年ぶりに満員札止めにするなど、爆発的な人気を呼んだ。この頃の角界は梅常陸時代以降、太刀山、栃木山、大錦、常ノ花と間断なく強い横綱が土俵に君臨していたのにも関わらず、それほど爆発的な人気を得ることがなかった大正時代の相撲界とは一線を画す様相を呈していた。港北区の地域文化の研究などに取り組む大倉精神文化研究所の平井誠二所長は、2019年の記事で「でっぷりとした昔ながらの力士のイメージを一新し、野球や陸上などに押され低迷していた相撲人気をV字回復させた」と武藏山の功績を讃えていた。現在の横浜市立日吉台小学校に相当する実家近くの学校を通り過ぎると授業を中断して児童が手を振ったとの記録もあり、地元に愛された力士であった。 同年5月場所には小結へ昇進して天竜三郎と激しい大関昇進争いを繰り広げたが、玉錦三右エ門が強力な壁となって大事な場面ではいつも敗れていた。1931年3月場所では、勝利すれば全勝優勝を達成するところで再度敗れて両者とも10勝1敗、番付上位優勝制度で玉錦の優勝となった。 同年5月場所で玉錦に初めて勝利し、この場所は10勝1敗で悲願の幕内初優勝を果たした。結果的にこれが最初で最後の幕内最高優勝となったが、当時はこれから何度も優勝を重ねるかと期待されていた。ところが、同年10月場所では8戦全勝で9日目を迎えたが、沖ツ海福雄の強烈なぶちかましが右肘に命中して敗れ、翌日は玉錦に不戦勝を与えて休場することとなった。場所後に天竜と武藏山のどちらを大関にするかで日本相撲協会が大きく揺れ動いた中で発表された1932年1月場所の番付では、小結・武藏山が関脇を飛び越して大関に昇進し、関脇・天竜はそのまま据え置き、前場所負け越した大関・大ノ里萬助が張出大関となった。そしてこの直後に天竜を首謀者とする春秋園事件が勃発し、武藏山も当初は脱退組に賛同したがすぐに脱落、ボクシングへの転向が報道されたが、すぐに協会復帰を表明すると同時に、2月の改定番付で帰参した。
※この「怪力でスピード出世」の解説は、「武藏山武」の解説の一部です。
「怪力でスピード出世」を含む「武藏山武」の記事については、「武藏山武」の概要を参照ください。
- 怪力でスピード出世のページへのリンク