怪僧
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 08:42 UTC 版)
「グリゴリー・ラスプーチン」の記事における「怪僧」の解説
やがてラスプーチンはアレクサンドラはじめ宮中の貴婦人や、宮廷貴族の子女から熱烈な信仰を集めるようになる。彼が女性たちの盲目的支持を得たのは、彼の巨根と超人的な精力によるという噂が当時から流布しており、実際に彼の生活を内偵した秘密警察の捜査員が呆れ果て、上司への報告書に「醜態の限りをきわめた、淫乱な生活」と記載するほどであった。しかし、貴族たちは次第にラスプーチンが皇帝夫妻に容易に謁見できることに対して嫉妬心を抱くようになった。サンクトペテルブルクではアパート5部屋を借りて家族と共に暮らしていたが、家賃はアレクサンドラ又は信者のアレクサンドル・タネーエフが代わりに支払っていた。 1907年9月にトボリスクで開かれた教会裁判において、ラスプーチンはフリスト派(英語版)を信仰しており、偽の教義を広め女性信者とキスや混浴をしたとして非難された。しかし、地元の司祭たちがラスプーチンを連れ出そうとした時には、既に彼はトボリスクを離れており、フリスト派との関係を示す証拠も発見されなかった。このような醜態は新聞によって大々的に報道され、ラスプーチンの理解者だったビストロフも彼から離れ、ストルイピンも帝都からの追放を画策していた。 1911年初頭に、ニコライ2世はラスプーチンに巡礼団の一員になるように指示した。ラスプーチンは巡礼団に加わり生神女就寝ポチャイフ大修道院に向かい、その後はコンスタンティノープル、イズミル、エフェソス、パトモス島、ロードス島、キプロス、ベイルート、トリポリ、ヤッファを巡り、四旬節に聖墳墓教会に到着した。 1912年初頭、ゲオルギー・ドルガニョフ(英語版)はラスプーチンがフリスト派の儀式に参加したと主張した。ラスプーチンがフリスト派の儀式に参加したことは事実と見られているが、言動にフリスト派の影響を受けたと思われる点は確認されていない。また、この時期には「ラスプーチンとアレクサンドラが愛人関係にある」という噂も流れた。噂に基きミハイル・ロジャンコはラスプーチンに帝都から出て行くように要求した他、首相ウラジーミル・ココツェフはラスプーチンを「亡命」させるようにニコライ2世に進言したが、拒否されている。トボリスク司教はラスプーチンを「皇室とロシア正教会の仲介者」と好意的に見ていたが、大半の司教たちは反感を抱いており、聖務会院はラスプーチンを「不道徳者」「異端者」「エロトマニア」などと非難した。この頃、ラスプーチンはロシアで最も嫌われる人物の一人となっていた。 ラスプーチンの言動はドゥーマでも問題視され、1913年3月にアレクサンドル・グチコフ率いる10月17日同盟がラスプーチンの調査を行うことになった。しかし、トボリスク司教は調査への協力を拒否した他、ニコライ2世もラスプーチンの身を案じて調査の中止を命令した。1914年1月29日、ニコライ2世はココツェフを解任し、イワン・ゴレムイキンとピョートル・バルク(英語版)を後任の首相・大蔵大臣に任命した。
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