常ノ花寛市
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常ノ花 寛市(つねのはな かんいち、1896年11月23日 - 1960年11月28日)は、岡山県岡山市出身で出羽ノ海部屋に所属した大相撲力士。第31代横綱。本名は山野辺 寛一(やまのべ かんいち)。
注釈
- ^ 山野辺少年が入門した前日には、同じ出羽ノ海部屋に大錦卯一郎が入門していた。
- ^ 共に常ノ花より年上で横綱にも常ノ花より先に昇進している為に2人より常ノ花は弟弟子と誤解されがちだが、大錦は常ノ花より1日早く入門しただけの初土俵同期生であり、栃木山は常ノ花より1年遅く入門している為、常ノ花から見れば栃木山は弟弟子である。
- ^ 同期生による三横綱は他に、1988年3月場所が初土俵の曙太郎・貴乃花光司・若乃花勝、同部屋同期生横綱には若乃花幹士 (2代)・隆の里俊英と、前述の貴乃花・若乃花がいる。
- ^ 自身の昇進によって同じ方屋に大関不在となってしまったため横綱大関としてその地位を兼ねた。
- ^ それまで東西優勝などの団体優勝に関しては相撲専門誌のグラビアや記事で大きく取り上げられたが、個人優勝はほとんど触れられていなかった。そのため、1909年6月場所から1925年5月場所までの優勝額掲額のみを行っていた時期はあくまで参考記録程度のとどめるべきという見解もある[2]。
- ^ このためか、これ以後は千代の山雅信が12勝3敗で優勝する(1950年1月場所)まで3敗の優勝者は出ていない。15日制以降では勝ち越し5点(10勝5敗)での幕内最高優勝は2019年5月場所までの時点でいない。
- ^ 15日制における最低成績での幕内最高優勝は栃東知頼(1972年1月場所)・武蔵丸光洋(1996年11月場所)・日馬富士公平(2017年9月場所)の11勝4敗だが、勝率で換算した場合は8勝3敗:.727、11勝4敗:.733となって優勝の最低勝率記録となる。
- ^ しかし、年2回あった関西場所での最高成績力士には優勝額贈呈が行われなかったこともあって、4回は後年の追認による(賜杯は東京場所と同様に贈呈されていた)。そのため当時は新記録として認識されず、後に双葉山定次が10回目の優勝を果たした時にはタイ記録ではなく、「太刀山峯右エ門・栃木山守也の9回を抜く新記録」と報じられた[4]。
- ^ なお、妻の山野辺静代も「すもう―常ノ花と私」という著作を残している。
出典
- ^ 『大相撲ジャーナル』2017年8月号 p39
- ^ 『大相撲ジャーナル』2017年6月号66頁。
- ^ 大空出版『相撲ファン』vol.4 100頁
- ^ a b c 『大相撲名門列伝シリーズ(1) 出羽海部屋・春日野部屋 』p21
- ^ 第26回国会 衆議院 予算委員会 第11号 昭和32年3月2日
- ^ 第26回国会 衆議院 文教委員会 第15号 昭和32年4月3日
- ^ a b 『大相撲名門列伝シリーズ(1) 出羽海部屋・春日野部屋 』p38
- ^ 風化させるな 大相撲事件史(14/15ページ) JIJI.COM 2022年07月12日18時00分 (2022年8月10日閲覧)
- ^ 岡山シティミュージアム・デジタルアーカイブ「郷土岡山が生んだ名横綱常の花」 プロフィール
- ^ 北の富士勝昭、嵐山光三郎『大放談!大相撲打ちあけ話』(新講舎、2016年)P103
- ^ "力士にとって『マージャンは脇が空くから駄目』入門時の師匠・出羽海理事長から授かった金言…辞任した黒川検事長は文字通り脇が甘かった【北の富士コラム】". 中日スポーツ. 中日新聞社. 25 May 2020. 2020年5月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年5月25日閲覧。
- ^ 『親方が腹を切ったぞ』に衝撃を受けながら格好いいなとも感じた15歳…3年だったが出羽海秀光親方に指導を受けられたのは名誉【北の富士コラム】 東京中日スポーツ 2020年5月26日 18時51分 (2020年8月23日閲覧)
- ^ 大腿部負傷・腹筋挫傷により全休
- ^ 糖尿病により3日目から休場
- ^ 左腕部腫物・発熱により6日目から休場
- ^ 扁桃腺炎により全休
- ^ 神経痛・肺炎により全休
- ^ 右手首関節負傷により9日目から休場
- ^ 右手首関節負傷により全休
- 1 常ノ花寛市とは
- 2 常ノ花寛市の概要
- 3 エピソード
- 4 主な成績
- 5 改名歴
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