山野辺少年の角界入り
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1896年11月23日に岡山県岡山市で生まれるが、出生時で既に体重が5kgに達しており、怪童としてたちまち評判となった。山野辺少年はとても利発で、12歳の時に大阪で大規模な火災が発生した際には被災者支援として子供相撲大会を自ら企画、開催し、その純益を義援金として大阪へ送ったほどである。これを知った明治神宮宮司・大日本帝国陸軍の一戸兵衛が、法律関係の仕事に就いて常陸山谷右衛門を贔屓にしていた父を介して紹介し、13歳で出羽ノ海部屋へ入門、1910年1月場所で初土俵を踏む。この一年後に4歳年上の栃木山守也が入門しているが、栃木山は常ノ花より横綱昇進を先に果たしていることから栃木山が常ノ花の兄弟子と誤解されがちだが、正しくは栃木山は常ノ花の弟弟子である。 決して怪力では無く、栃木山守也より体重が重いと言っても細身で軽量なため、1917年5月場所で新入幕を果たしても横綱はおろか三役定着すら期待されていなかった。しかし、生来の負けん気の強さに加えて稽古熱心で、数多くの稽古相手に恵まれた環境と常陸山の厳しくも熱心な指導によって順調に出世した。1920年5月場所では大関に昇進するも稽古中の負傷によって全休、1921年1月場所では9勝1敗、同年5月場所では10戦全勝で初の幕内最高優勝を果たした。この成績であれば通常なら横綱昇進は決定的だったが、同じ東方には既に栃木山守也・大錦卯一郎がおり、横綱昇進は源氏山大五郎に先を越されてしまった。 その悔しさからさらに猛稽古に励み、1924年1月場所で8勝2敗の好成績を挙げ、9勝1分で幕内最高優勝を果たした栃木山に次ぐ成績として悲願の横綱昇進を確実にした。この場所では名古屋市中央区大池町の仮設国技館で行われた晴天10日間の興行で、東京相撲が初めて東京を離れて行った興行だったが、連日満員だったという。常ノ花は歴史的な意義のある場所で大勢の観客の声援を受け、横綱昇進を果たしたと言える。大錦卯一郎、源氏山大五郎に次ぐ、1910年1月場所で初土俵を踏んだ同期生から三年目の横綱であり、さらに大錦とは史上三組しか存在しない「同部屋同期生横綱」となった。新横綱の場所(1924年5月場所)では前場所優勝の先輩横綱栃木山を張出に回して正横綱におかれた。この後栃木山は1925年1月場所まで3連覇するが、5勝2敗2分1預、2敗9休(1休は現在なら不戦敗)の常ノ花が常に正横綱で栃木山は張出に据え置かれた。この栃木山にとっては不可解な番付編成が、1925年5月場所前の栃木山の突然の引退の一因ともされる。 1926年1月場所では横綱として初の全勝優勝を果たした。この場所から賜杯の贈呈が行われ始め、協会が正式に個人の優勝を制度として設定したとされている。ただしこの場所に渡されるはずであった賜杯は賜杯中央部分に皇室の菊の紋章が飾られていることから、皇室の『御紋章取締規則』に触れ、宮内庁から差し止めの命令が出た。協会は菊の紋章を除いた小型の模杯を至急作成し、常ノ花にこれを授与した。現在の天皇賜杯の菊花大銀杯は、差し預かりが解けた1928年1月場所優勝の常陸岩から授与された。 大坂相撲との合併が行われたあとの1927年1月場所は不振によって、大坂相撲から編入した宮城山福松に優勝を奪われたが、3月・5月・10月場所といずれも10勝1敗で3連覇を果たし、1928年5月場所は3度目の全勝優勝を果たして第一人者の地位を不動のものとした。1929年9月場所には優勝したものの8勝3敗の成績で「3つも負けた者に天皇賜杯とは不敬」とする声が上がった。このため「3敗以上した場合はたとえ優勝しても賜杯の贈呈はしない」と規定が改定された。
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