突然の引退~理事長就任
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「常ノ花寛市」の記事における「突然の引退~理事長就任」の解説
しかし、さらなる飛躍が期待されている最中の1930年5月場所途中、突然の現役引退を表明した。引退後は年寄・藤島を襲名すると、講談社から優勝力士に銀杯を贈りたいとの申し出があった。協会はこれを断ろうとしたが、藤島はこれに目をつけて「雑誌社も報道機関であるから相撲振興のために進んで受けるべきだ。不況の角界を再興させる道だ」と説得、申し出を受けることが決定した。 1932年1月6日に勃発した春秋園事件では、協会の使者として春日野と共に天竜三郎の説得にあたるなど、事件の完全収拾に全力を尽くした。この事件によって出羽海・入間川・高砂が引責辞任すると、春日野・立浪・錦島と共に取締に就任、1944年には元力士としては初となる第2代の相撲協会理事長に就任した。1949年には出羽海を継承して蔵前国技館を建設する(1954年竣工)など、戦後間もない東京で大相撲復興の基盤を築いた。その蔵前国技館が完成して間もない1956年には、赤い綱を締めて、露払いに千代の山雅信、太刀持ちに時津風を従えて還暦土俵入りを行なった。現役理事長としての還暦土俵入りは史上初だった。 1949年1月に出羽海の死去を受けて出羽海部屋を継承したが、理事長在任中の部屋継承だったために協会運営が優先され、指導は部屋付きの親方衆に任せていた。自身の師匠在任中には千代の山雅信が横綱へ昇進しているものの、千代の山は先代からの弟子で直弟子ではなく、常ノ花が師匠に就任した際には既に大関目前まで上がっていた。出羽錦忠雄などの弟子も大半が千代の山と同様に先代からの弟子で、特に理事長時代は部屋の指導にも殆ど当たっておらず、部屋の指導に本腰を入れたのは相談役に退いてからのために、直弟子の栃錦清隆を横綱に育て、自身の没後に横綱となった栃ノ海晃嘉と大関となった栃光正之も入門時に育成した弟弟子の栃木山守也や理事長を務めながら1横綱3大関を育てた自身の後任理事長の双葉山定次と比べると部屋の師匠としての評価はあまり高くない。ただし、自身の師匠時代に入門した佐田の山晋松と北の富士勝昭は常ノ花の没後に横綱となっている。
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