名跡継承問題〜独立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 09:08 UTC 版)
1960年に九重の師匠である出羽海が亡くなると、九重も後継者候補として名乗りを上げた。常ノ花は、亡くなる寸前に「九重(千代の山)に継がせたかった」という遺言を残したと言われたが確証がないため、武藏川が継承した。常ノ花は、この3年前の自殺未遂事件の時にも九重を後継者に指名した遺書を書いていたと言われるが、一命を取り止めたことでこの遺書は破棄された。 1965年5月、柏戸剛・大鵬幸喜・北の富士勝昭と共に拳銃をハワイから密輸入したことにより、その証拠隠滅を図ろうと廃棄していたことが発覚、書類送検されたが日本相撲協会からの処分はなかった。 出羽ノ花の次代の「出羽海」こそは、九重だと本人も周囲も思っていたが後に佐田の山晋松が出羽海の婿養子となり、しかも出羽海が部屋の土地・建物全てを「佐田の山」名義に書き換えていた。このため九重は自分が継承することはないと判断し、1967年1月場所後に常陸山以来の分家独立不許という不文律に悩みながら申し出ると、弟子13名中10名までを連れて独立することを許された。しかし弟子もろとも一門から破門されたため、髙砂一門へ移籍することになった。
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