名跡の変遷
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1938年、粂川部屋の7代粂川が急死すると、同部屋の大関・鏡岩が8代粂川二枚鑑札となった。 1950年、8代粂川が脳溢血のため亡くなると、8代遺弟子である時津風部屋の関脇・不動岩が9代粂川を借り受け襲名した。 1958年、同じく8代遺弟子である横綱・鏡里が引退して、一代年寄・鏡里を襲名した。ところが翌年8月に横綱一代年寄制度の廃止が決まると、横綱は引退後の5年のみ役員待遇を受けることとなり、当時一代年寄であった鏡里ら3名の5年間の計算は、引退時期にさかのぼることとなった。1960年に鏡里が10代粂川を襲名し、9代粂川は式秀に名跡変更した。 11代粂川となる時津風部屋の幕内・双ッ龍は引退後に音羽山を一時的に襲名していたが、先代の名跡変更に伴い空跡となった粂川を襲名。時津風部屋付き親方として長く協会に勤務した。 11代粂川が引退した後は、名跡は佐渡ヶ嶽部屋の系統へと移った。1995年に引退した関脇・琴富士が12代粂川を襲名したが、1999年に兄弟子の琴稲妻が引退すると琴富士は相撲協会を退職。琴稲妻が13代粂川となり佐渡ヶ嶽部屋付きの年寄として後進の指導にあたった。
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名跡の変遷
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1953年に11代花籠(大ノ海)が興した花籠部屋は若乃花や輪島をはじめとする多数の有力力士を輩出し、相撲界の名門部屋となった。1981年、停年間近であった11代花籠とバトンタッチする形で、11代の娘婿である輪島が12代花籠を襲名して花籠部屋を継承したが、年寄名跡を担保に入れて多額の借金をするという事実が発覚すると、1985年12月に輪島は廃業を表明、関係者は後継者を決定することができずに花籠部屋は消滅した。 11代花籠の次男は山梨県上野原町で不動産開発会社の代表を務めていたが、かつての名門であり当時は閉鎖となった花籠部屋を再興するため、相撲関係者ではない人物に渡っていた本名跡を2億5000万円を支払って入手した。しかし年寄名跡を襲名継承するのに必要な資格はないため、自ら花籠部屋を継承運営することはできなかった。 11代花籠の弟子である10代二子山(若乃花)は、11代次男のことを幼少の頃から知っており、結婚式の際には仲人も務めていた。10代二子山は事情を知ると、自らの弟子で二子山部屋の力士であった太寿山を花籠部屋の後継者として推薦し、次男は自らの会社の本拠地である山梨県上野原町での相撲部屋開設を条件として名跡を譲渡した。これにより1992年、15代花籠(元太寿山)により花籠部屋が開設された。しかし他部屋への出稽古や新規入門者の相撲教習所通学に支障をきたしたため、1996年12月に部屋を東京都墨田区両国に移転。これに反発した11代次男は東京地方裁判所に年寄名跡の返還を求める民事訴訟を起こしたが、1998年9月、裁判は15代側が勝訴して決着した。
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名跡の変遷
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1985年、5代峰崎(元幕内・那智ノ山)の引退により峰崎が空き名跡になると、当時大関でありながら年寄株取得の目処がついていなかった若島津が取得に動いたが、有力な後援者(佐川清)を持つ三杉磯が獲得した。出羽海一門にとっては秀ノ山、藤島、峰崎と相続いで、一門外に名跡が流出することとなった。 1986年1月場所に横綱・隆の里が引退すると13代鳴戸を襲名したが、隆の里から鳴戸を借りていた若獅子は今度は三杉磯から峰崎を借り、6代峰崎となった。同年9月、三杉磯は引退後に峰崎を襲名し、1988年には峰崎部屋を創設した。
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名跡の変遷
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16代春日山(幕内・大昇)が1990年に定年退職してからは、春日山はしばらく空き名跡となった。1991年9月に板井が引退した際に借株で春日山を襲名する予定であったが、相撲協会が年寄襲名の申請を却下したため廃業せざるを得なくなった。同時期に引退した陣岳が17代春日山を借株で襲名。同じく井筒部屋の逆鉾が18代、薩洲洋が19代を襲名したがいずれも借株であった。 春日富士は16代春日山から名跡を取得すると、1996年の引退後に20代春日山を襲名した。引退直後には安治川部屋の部屋付き親方を務めたが、翌年には内弟子一人を連れて春日山部屋を再興。力士20名を超える大所帯となり、50部屋に及ぶ相撲部屋の中でも4,5番目に大きな部屋となっていた。 2010年頃、濱錦の力士引退が現実的になると、濱錦が襲名する年寄名跡の工面が検討された。この頃、高島部屋は弟子不足に悩まされていたことから、13代高島(関脇・高望山)が部屋と高島名跡を浜錦に継承するとともに、自らは濱錦が別途用意する名跡を継承したうえで、部屋付き親方になるという案が出た。引退後に新規で相撲部屋を開設する権利を持たない濱錦は、高島部屋に弟子を1名紹介して入門させた。[要出典] 2011年、立浪部屋付きの14代雷(小結・羽黒岩)が定年退職すると、雷が空き名跡になることになった。そこで濱錦が雷を事前に確保しておき、引退の際に高島と名跡交換を行う計画が立てられた。20代春日山らの貸付により雷名跡の買受に必要な資金が準備され、濱錦は雷名跡を確保した。[要出典]しかし予想外に2011年6月に高島部屋に所属力士がいなくなり部屋は消滅。雷と高島を交換することで濱錦を部屋持ち親方にする計画は頓挫した。[要出典] 2012年1月、日本相撲協会の理事に就任した20代春日山は、自らは理事職に専念して、相撲部屋の運営は濱錦に譲ってもよいと考え、濱錦の引退後に雷と春日山の名跡交換を行い、濱錦が春日山部屋を継承することで合意。20名余の弟子を擁する春日山名跡と、部屋付き親方にすぎない雷名跡とでは財産的価値は大きく異ると考えられたが、濱錦から春日山への支払額や支払い方法については、春日山がしばらくは部屋の運営に関与した後、濱錦が親方として独り立ちした際に再度協議することとなった。[要出典] 同年の3月場所前に濱錦が引退すると、相撲協会の承認により名跡交換が行われ、濱錦は21代春日山を襲名、20代春日山は16代雷に名跡変更した。この際、雷名跡の取得の際の貸付金と、春日山部屋継承の対価支払いが未了であったことから、名跡証書は16代雷が預かることとなった。[要出典] 同年9月、16代雷は女性問題により相撲協会を退職すると、21代春日山の間で、支払い対価に関する話し合いが持たれたが、合意に至らなかった。[要出典] 2013年、日本相撲協会が公益法人化への移行を目指す際に、名跡証書の提出を命じ、提出できない場合には部屋の存続を認めないとの方針を打ち出した。21代春日山は相撲協会に対して証書を紛失した旨の虚偽の申告を行い、再発行申請をしたところ、16代雷こと岩永が証書保有を表明したため、相撲協会が再発行を取り消すという事態に至った。 2013年11月、岩永が相撲協会を退職した後も名跡証書を不当に所持しているとして、21代春日山は名跡証書の引き渡しを求める訴訟を起こしたが、2016年の一審判決は岩永の証書所有の正当性を認める内容であった。21代春日山は高裁へと控訴したが2017年1月に相撲協会との人材育成契約更新がかなわず相撲協会を退職。これに伴い2017年2月20日、双方が請求を取り下げ和解して訴訟は終結した。和解から間もない3月9日に岩永は急死した。 21代春日山が退職してから約4年後、名跡を取得していた勢翔太が2021年に引退して22代春日山を襲名した。
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名跡の変遷
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2011年に13代鳴戸(横綱・隆の里)が急死すると、14代鳴戸(幕内・隆の鶴)が部屋を承継した。年寄名跡は所有する親方の死亡から3年間は遺族による所有が認められており、14代鳴戸が部屋の運営をしながらも、実質的に名跡を所有していたのは13代夫人であった。 2013年に日本相撲協会が公益財団法人への移行を目指すと、年寄名跡を協会が一括管理することとなった(年寄株問題を参照)。年寄衆は名跡証書の提出を求められていたが、13代夫人は14代鳴戸に法外な金額を要求したとされ、14代鳴戸は名跡を取得できなかった。 14代鳴戸は、空き名跡となっていた田子ノ浦を取得して名跡変更。田子ノ浦は前年に元前頭・久島海が死亡した後、金開山の借株であったが岩友を襲名した後は、空き名跡となっていた。名跡の所有者である久島海の遺族としては、証書の価値が無くなる(遺族による所有の期限が満了する)前に譲渡することができた。 稀勢の里など力士12名とともに、部屋の所在地も松戸市から、同年停年退職した増位山の旧三保ヶ関部屋(墨田区)へと移転した。 14代鳴戸が名跡変更して以降は暫く協会預かりとなっていた時期がある。
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名跡の変遷
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1958年9月場所限りで引退した元小結・清水川は、16代間垣を襲名すると追手風部屋の部屋付き親方となったが、翌年には分家独立して間垣部屋を創設した。しかし関取に恵まれず1975年に部屋は閉鎖となり、1979年、16代間垣は肝硬変のため53歳で死亡した。1981年9月場所限りで引退した元関脇・荒勢は、17代間垣を襲名すると花籠部屋の部屋付き親方となった。 12代花籠(横綱・輪島)は17代間垣と同様に日本大学出身であったが、17代間垣は、1983年、既に引退していた横綱・若乃花幹士 (2代)に名跡を譲り、芸能界へ転進し相撲界を去った。 二子山部屋所属の横綱・若乃花幹士 (2代)は1980年、師匠である10代二子山(横綱・初代若乃花)の長女と結婚したが、約1年で離婚したうえ、以前より交際していた女性と再婚。これらの行動が祟ったためか年寄名跡を取得できず、1983年1月場所の引退時点では横綱特権の現役名年寄・若乃花となっていた。1983年5月に同門の荒勢の間垣株を取得すると、18代間垣となり二子山部屋の部屋付き親方となったが、同年12月に間垣部屋を創設した。 2013年12月、相撲協会が公益法人へと移行するため、親方衆に名跡証書の提出を求めたが18代間垣は提出することができず、名跡証書を保有する現役関取の名前も明かされなかったことから、一部には名跡証書が行方不明状態になっていることが報じられた。既に脳出血の後遺症により後進の指導を十分に行えず、同年3月に自身の部屋を閉鎖して伊勢ヶ濱部屋の部屋付きとなっていた18代間垣は結果的に期限までに名跡証書を提出できず、相撲協会を退職した。 2014年1月、時天空が日本に帰化すると、同年5月に間垣名跡の取得を正式に届け出ていたことが同年6月に報道された。相撲協会の規定では「年寄名跡は、本協会の年寄及力士の有資格者以外の第三者に譲渡し、又は担保に供することが出来ない」とあり、また1976年より「年寄名跡の襲名は、日本国籍を有する者に限ることとする」とされていた。 18代間垣が名跡証書の提出を求められた2013年12月の時点では、時天空はモンゴル国籍であったから年寄名跡の襲名資格は無く、所有者の名前が明かされることも無かった。時天空は2016年8月に現役を引退して19代間垣を襲名したが、引退の原因にもなった悪性リンパ腫の病状が悪化し、在職中の2017年に37歳で没した。 没後しばらくは時天空の遺族が名跡を保有していたが、2018年4月に佐ノ山を借株で襲名していた土佐豊が名跡を取得して20代間垣を襲名。しかし2021年2月、時津風(前頭・時津海)が不祥事のため相撲協会を退職すると、20代間垣は名跡変更により17代時津風を襲名して時津風部屋を継承した。その後同年5月に横綱・白鵬(宮城野部屋)が間垣の名跡を取得、同年9月に現役を引退して21代間垣を襲名し、宮城野部屋付きの親方となった。21代間垣は2022年7月に宮城野部屋を継承するため12代宮城野(前頭・竹葉山)と名跡を交換して13代宮城野を襲名、代わって12代宮城野が22代間垣を襲名した。
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