名跡「中村錦之助」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/13 17:38 UTC 版)
錦之助は生前、母・小川ひなから、父や早世した兄の名跡である「中村時蔵」を襲名してその五代目となるように再三懇願されたが、本人は拒否を貫いた。錦之助の名は本名の「錦一」に由来するもので、過去での歌舞伎に由来を持たない、まったく本人独自のものである。もちろん初代である。この名を歌舞伎・映画俳優時代を通じて名乗り続け、1972年に萬屋錦之介と改名した。 彼の息子は歌舞伎界には入らず、映画界に入ったものの大成せず、三男は交通事故死、四男が不祥事の末に自殺という結末だった。そうとなれば、「中村錦之助」を名跡として復活させるには他人が名乗るしかない。しかし、この名は歌舞伎・松竹から離れ映画界に転じてから、しかも映画・舞台の興行会社として松竹とは競合関係にある東映で大成した名である。それゆえに、歌舞伎を仕切る松竹がタッチしたがらない名前、いわば永久欠番的な存在である、と長らく言われ続けていた。歌舞伎における軽い位置づけと裏腹に、映画界ではこの名の存在感があまりに重過ぎるため、このこともまた名跡復活にあたって壁になるかもしれないという懸念も長らく囁かれていた。 結局「中村錦之助」の名は、死後10年経った2007年4月2日、東京歌舞伎座の大歌舞伎興行で、次兄・四代目中村時蔵の次男で、自身の甥である中村信二郎が、『鬼一法眼三略巻・菊畑』の虎蔵実は牛若丸と『双蝶々曲輪日記・角力場(すもうば)』の長吉、与五郎で二代目錦之助を襲名した。「菊畑」の虎蔵実は牛若丸は初代が歌舞伎役者時代、最後に務めたゆかりある役どころである。 二代目錦之助はこの「錦之助」の名跡を「歌舞伎では大したことのない名前」と語る。「中村錦之助」という名は前述の通り映画界では威厳ある名前であるが、歌舞伎界においては全く軽いものである。しかし二代目は「(映画界において大成した)中村錦之助という名を歌舞伎に戻すのが私の役割」と語る。まさに前例がない試みであり、二代目にとってみても生涯挑むべき目標とも言える。萬屋は新興の一門であるにもかかわらず、男子に恵まれており、歌舞伎俳優となった者も多かったことから、「錦之助」以外のゆかりある名跡や名前は現在も全て使われている。
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