運動の影響
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会の主張は急進的であり、受け入れられない面もあったが、改良会員だった福地桜痴は、1889(明治22)年には東挽町に歌舞伎座を開場させ、座付作者として團十郎と近松などの作品を改作して劇の改良を続ける。また、1884(明治17)年に『自由太刀余波鋭鋒』を発表し、シェイクスピア戯曲の翻訳者として知られていた坪内逍遥は、演劇改良会と前後する頃、團十郎との初対面において以下のようなやり取りを交わしている。 ──明治二十何年頃であつたか、私が彼れに對つて「無言の思入れで深い思想や感情を暗示するも面白いが、時にまたハムレットの獨白のやうに胸臆を有りのまゝに語るのも面白い」といふ意味の事をいふと、彼れは例の寡默に「成る程成る程」とばかり言つて聽いてゐたが、最後に「併し白で言つてしまひましたら、藝をする餘地がなくなりは致しませんか?」とだけ言つた。彼れは餘䪨と含蓄とを重んじたのである。今で謂ふとロダン式なのである。其時、私は──其頃は所謂活歴の妙な寫實主義に反對して近松沙翁式とでもいふべき一種のロマンチシズムを主張してゐた時であつたから──「それは白の内容次第である。喜怒哀樂の發作や形容をわざわざ自分で説明するやうな白、例へば「予は身の毛がよだつ!」とか「おれの齒がみをしてゐるのが見えぬか?」などいふ白は、あんまり不自然で、殊に日本人のいはぬことで、聞苦しいでもあらうが、ハムレットのやうな怖しく葛藤つた胸を惱みを言ひあらはす白は、言ひかたによつては非常に趣味も深く、感動も强からうと思ふ。實際は口へ出して言はぬ事を獨白で言はせ、そして自然らしく見せる所に演劇の本領がある。劇は必ずしも寫實を要しない。尤も、只素讀をするやうに一本調子で言つてしまへば、何の含蓄もなからうが、一語々々の深い意味を十分に味はせるやうに、且つ如何にも自然らしく言ひ廻すことが出來たなら、そこにこそ眞に微妙な演技があるので、その複雑な、精緻な味ひは迚も思入れだけでは現せるものではあるまい。外國でエロキューションに重きを置くのは是れが爲である。(中略)其頃の私は純粹の沙翁劇心醉者であつた。彼れは「成る程」と只一語、満足らしい顔をして默つてしまつた。 — 坪内逍遥「九世市川團十郞、五世菊五郞(大正元年九月)」 演劇の改良機運はその後も、川上音二郎の新派の発生と川上の妻川上貞奴を嚆矢とする女優の台頭、1904(明治37)年の坪内逍遥作「桐一葉」の初演や松居松葉、森鷗外ら外部の脚本の採用、1909(明治42)年の二代目左團次と小山内薫による自由劇場の旗揚げ、さらには1911(明治44)年の帝国劇場開場へとつながり、後世の歌舞伎の近代化の重要な一石となった。 勘弥は一連の活動について「いくら偉い人が集まっても、所詮は素人が汁粉屋を始めたようなもの」として否定的な意見を述べるも、「仮に今は失敗しても、何年かは会の趣旨が立に役立つ時が来るだろうから、決して無駄ではないさ。」とその将来の影響を予言している。
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