運動の拡大と分裂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/04/02 14:21 UTC 版)
フルトと協同し、やがて決別したヤンセン(上)とヤコプソン エストニア民族運動の中心人物となったフルトは、幾度も当局に雑誌の発行を申請したが、いずれも拒絶された。1871年の一時期はヤンセンが編集長を務める『エースティ・ポスティメース』(et) 紙の本部編集局に入ったが、ほどなくドイツ人と通じたヤンセンによって編集者を解任された(その詳細は不明)。 その後、1872年末にはオデンペの牧師に就任することとなり、フルトは新校舎建造・教員組織拡充・ブラスバンドとコーラスグループの結成などに目覚ましい役割を果たした。さらには文学者協会を通じてフォークロア収集ネットワークを発展させ、エストニア全土から1300点に及ぶ資料を報告させた(これは過去10年間の収穫を遙かに凌駕する規模であった)。その成果は、『ヴァナ・カンネル』(et) と題されて文学者協会から公刊されている。 しかし一方で、隆盛するエストニア民族運動は、ロシア化政策を推進する当局や、反エストニア的(英語版)なドイツ人牧師らとの決定的な対立を招いた。1876年には、ドイツ人上流層・聖職者がエストニア民族教育の必要性を公然と否定してアレクサンドル学校を攻撃し、対するフルトらもこれに正面から立ち向かった。やがてフルトらはヤコプソンの「農民協会」と連携し、民族運動を拡大させた。 1878年3月にヤコプソンによって『サカラ(エストニア語版)』紙が創刊されると、エストニア民族運動はさらなる高まりを見せるかに見えた。ところが、急進的な『サカラ』は保守的な聖職者を批判するに留まらず、宗教全体を批判し、フルトの個人的な宗教観までも繰り返し紙面で侮辱するに至った。そもそも、エストニア人の政治的・経済的発展を求めるヤコプソン派と、その道徳的・精神的・文化的向上を志向するフルト派は、目的においてまったく噛み合うところがなかった。
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