運動の始まり
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第一次世界大戦後、三・一独立運動や五四運動などの高まり、ウィルソン十四ヵ条・ロシア十一月革命に現れた民族自決容認の動きを受けて、東アジアでも民族意識が高揚した。このような動きを背景に京都帝国大学教授で植民政策学の権威であった山本美越乃が朝鮮半島に独自の議会を認めることで植民地住民の不満を抑える提言を行った。それを知った東京在住の台湾人林献堂ら187名が1921年1月30日に帝国議会両院に対して「台湾議会設置請願書」を提出した。同年10月には民族主義活動家を結集して「台湾文化協会」が発足し、同団体を中心に議会設置運動が展開された。この運動は民族統一戦線的な性格を持ち、民族主義右派から左の社会主義者に至るまで広範な人士を組織しており、州政以下の参政権を付与することで大戦後の民族運動の高まりを逸らし、運動の分断を策す総督府の政策に対して、台湾人の側から「台湾」規模の自治を要求するものであった。また同年の「法三号」制定の結果、それまで「土皇帝」として強大な権限を持っていた台湾総督の委任立法権を縮小し日本内地の国内法がそのまま台湾で適用されるようになったが、法三号制定以前に台湾総督が制定した弾圧法規(匪徒刑罰令などの台湾律令)はなお効力を有していた。このため台湾住民に対する総督の専制は温存されており、台湾住民全体の要求を代表する「台湾議会」を設置することでこれを廃止しようとするねらいがあった。
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運動の始まり
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下野した征韓派は五箇条の御誓文の第一條「広く会議を興し万機公論に決すべし」の文言を基に有司専制を批判して結集を呼び掛け、明治7年(1874年)1月12日、板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣らが愛国公党を結成。1月17日、民撰議院設立建白書を政府左院に提出した。 臣等伏して方今(ほうこん)政権の帰する所を察するに、上は帝室(すめらみこと)に在らず、下は人民(おほみたから)に在らず、而(しか)も独り有司に帰す。夫れ有司、上は帝室を尊ぶと曰(い)はざるに非(あら)ず、而して帝室漸く其尊栄を失ふ。下は人民を保つと曰はざるに非らず、而も政令百端、朝出暮改、政情実(まこと)に成り、賞罰愛憎に出づ。言路壅蔽、困苦告(つぐ)るなし。夫(そ)れ如是(かくのごとく)にして天下の治安ならん事を欲す。三尺の童子も猶(なほ)其不可なるを知る。因仍改めずば、恐くは国家土崩の勢を致(いた)さん。臣等愛国の情自ら已む能はず、乃(すなは)ち之(これ)を振救するの道を講求するに、唯天下の公議を張る在る而已(のみ)。天下の公議を張るは、民撰議院を立つるに在る而已(のみ)。則(すなは)ち有司の権を限(かぎ)る所あつて、而して上下安全、其の幸福を受る者あらん。請(こ)ふ遂に之(これ)を陳(ちん)ぜん。 — (『民撰議院設立建白書』冒頭) 板垣退助らの建白書は、時期尚早として却下されたが、この建白書がイギリス人のブラックによる新聞『日新真事誌』に載せられたことで、国会開設の問題が世間に知られることになり、民選議院を設立すべきか否かの論戦が新聞紙上で交わされることとなった。 愛国公党の諸氏は、互いに地元に帰り、先ず自分の地盤を固めることから活動することに決し、板垣ら土佐勢は高知に戻って立志社を設立した。
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運動の始まり
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イタリア・ミラノ出身のステファノ・ゴッビ神父は1972年5月8日にポルトガル・ファティマに巡礼に行った。そして、ファティマの聖母聖堂で、司祭の職を捨てたり、ローマ・カトリックに反抗しようと伝え聞く司祭たちのために祈っていた。 ゴッビ神父によると、ある日、最初の内的啓示が聖母からあった。その内的な声は聖母マリアの穢れ無き御心のうちにもっと自信を持ち、無原罪の聖母の御心に自分自身を捧げることをいとわない司祭たちと集まり、ローマ教皇及びカトリック教会と強く団結しなさいと励ました。 ゴッビ神父は内なる声を確認するため、聖母マリアに祈った。そして1972年5月後半に、ナザレの受胎告知教会で祈っている間に声を受けた。 ゴッビ神父は1972年10月に彼の精神的な相談者たちとの協議の後、彼の他2人の司祭にイタリアのコモ(Como)にあるジェラ・ラリオ(Gera Lario)で、いくつかのローカル新聞とカトリック系新聞に「運動」の告知をした。1973年3月には、この「運動」への参加を表明した80名中23名のカトリック司祭が国内集会に参加した。この「司祭のマリア運動」は現在、イタリア・ミラノに本部を置き、世界中にその支部を持つ。 世界中で約300人の枢機卿及び司教、10万人以上の聖職者がその会員となっている。
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