抵抗運動の始まり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/19 14:16 UTC 版)
「ウィリアム・ウォレス」の記事における「抵抗運動の始まり」の解説
記録に出てくるなかでは、1296年8月にパースで「William le Waleys」なる盗賊が現れたとあるが、これがウィリアムかどうかは確認されていない。 ウィリアム・ウォレスの名が歴史上に出てくる確かな年代は1297年5月で、ラナークのハイ・シェリフ(英語版)を務めるイングランド人ウィリアム・ヘッセルリグ(William Heselrig)を殺害した事件がそれである。この殺害について、ブラインド・ハリーが伝える伝承ではウォレスの愛人マリオン・ブレイドフュートがヘッセルリグの息子を振って殺され、その復讐とされるが、実際にはイングランド式の統治を推し進めていたヘッセルリグのアサイズ(巡回裁判)に反発したスコットランド人の一団がヘッセルリグの殺害を計画・実行し、この一団にウィリアムが関わっていたものと見られる。 ウォレスは、イングランドの過酷な統治に反発するスコットランド下級貴族・中間層・下層民の間で急速に支持を広げた。分散的だったスコットランド人の抵抗運動はウォレスの指導下にナショナルなゲリラ的抵抗の形をもって統一されていった。一方スコットランド大貴族は親イングランド的だったうえ、ウォレスを身分の低い者と軽蔑していたので、積極的な協力はしなかった。
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