抵抗運動とそれに対する報復
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 18:48 UTC 版)
「パルチザン (ユーゴスラビア)」の記事における「抵抗運動とそれに対する報復」の解説
パルティザンが枢軸勢力に対するゲリラ戦を始めた当初は、パルティザンの組織は小規模で、軍事訓練もされておらず、また装備も貧弱であった。しかし、ユーゴスラヴィア域内で活動する他の抵抗組織と比べて、2つの点で優れていた。1つめに挙がるのは、パルティザンには少数ながらも無視できない数のスペイン内戦の経験者がおり、ユーゴスラヴィアの置かれている状況に似た環境での現代戦争の経験があったことである。2つめは、パルティザンは民族に基づかずイデオロギーに基づく集団であったため、多民族国家であるユーゴスラヴィアの全ての民族集団から一定数の支持を得ることができたという点である。これによってパルティザンはより多くの人々を対象に兵士を募集することができ、また域内での可動性を高めることができた。この利点は後になるにつれて大きくなっていった。 これに対してユーゴスラヴィアを占領する枢軸勢力やその協力者らはパルティザンの存在を大きな脅威と捉え、7回に及ぶ対パルティザン攻勢などにより抵抗組織の破壊を試みた。 第1次反パルチザン攻勢(First anti-Partisan Offensive)は、1941年秋に枢軸勢力によって行われた大規模攻勢であり、セルビア西部に成立したパルティザンによる解放区「ウジツェ共和国」(Republic of Užice)に対して行われた。1941年11月、ナチス・ドイツはこの領域を攻撃して再占領し、パルティザン兵士の多くはボスニア東部へと脱出した。この戦闘の最中にチェトニクとパルティザンによる脆弱な協力関係が崩壊し、それ以降は互いを公然と敵視するようになった。 第2次反パルチザン攻勢(Second anti-Partisan Offensive)は、1942年1月に枢軸勢力によってボスニア東部のパルティザンに対して行われた。パルティザンは包囲を破ってサラエヴォ近くのイグマン山へと退却した。 第3次反パルチザン攻勢(Third anti-Partisan Offensive)は1942年の春に枢軸勢力によって、ボスニア東部からモンテネグロ、サンジャクおよびヘルツェゴヴィナにかけて行われた。この攻勢はドイツ側では「トリオ作戦」と呼ばれたが、パルティザンは辛くも脱出に成功した。 第4次反パルチザン攻勢は、ネレトヴァの戦いと呼ばれ、1943年1月からボスニア西部からヘルツェゴヴィナ北にかけて行われた。枢軸勢力は解放区「ビハチ共和国」(Republic of Bihać)の破壊を目的とし、パルティザンはネレトヴァ川を渡って南側へと脱出した。 第5次反パルチザン攻勢(Fifth anti-Partisan Offensive)は、スティエスカの戦い、あるいはドイツ側では「黒作戦」(Fall Schwarz)と呼ばれる。ボスニア南東部からモンテネグロ北部にかけて、第4時攻勢の直後から始まった。 第6次反パルチザン攻勢(Sixth anti-Partisan Offensive)は、イタリアが降伏に伴って撤退するアドリア海沿岸地域を引き続き確保するためにドイツ国防軍およびウスタシャによって1943年の秋から1944年初頭にかけて行われた 第7次反パルチザン攻勢(Seventh anti-Partisan Offensive)は、1944年春にボスニア西部で行われた枢軸勢力による最後の対パルティザン大攻勢であり、レッセルシュプルング作戦(Operation Rösselsprung)と呼ばれる軍事作戦や、ティトーの殺害などによるパルティザン指導者の無力化を目的としていた。 これらの対パルティザン攻勢は、ドイツ国防軍や親衛隊(SS)、イタリア軍、ウスタシャ、チェトニク、ブルガリア軍などによって行われた。
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