運動の初期段階
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/22 16:16 UTC 版)
「ベンガル語国語化運動」の記事における「運動の初期段階」の解説
1947年のインド分割後、東ベンガル(パキスタン自治領の離れた東側部分)のベンガル語話者は新たに作られたパキスタン自治領の6千9百万人の4千4百万人を占めていた。しかしながら、パキスタン自治領政府、官公庁、および軍はパキスタン自治領の西翼出身の職員が支配的であった。1947年11月、カラチでの全国教育サミットの重要な決議では、唯一の国家言語としてウルドゥー語と英語が主張された。ただちに反対と抗議が起こった。ダッカの学生は、ベンガル人イスラム文化組織タマドゥン・マジュリシュ(英語版)の長アブル・カシェム(英語版)の統率の下で大決起集会を行った。この集会は、パキスタン自治領の公用語として、そして東ベンガルにおける教育言語としてベンガル語を要求した。しかしながら、パキスタン公務委員会(英語版)は認可対象の一覧、そして紙幣や切手からベンガル語を取り除いた。中央教育大臣Fazlur Rahmanはウルドゥー語をパキスタン自治領の唯一の国語とするために入念な準備を行った。大衆の怒りが広がり、多くのベンガル人学生がベンガル語を公用語とするよう正式に要求するため、1947年12月8日にダッカ大学のキャンパスで集会を開いた。彼らの大義を推進するため、ベンガル人学生らはダッカでの行進と大決起集会を組織した。 優れたベンガル人の学者らは、なぜウルドゥー語を唯一の国語にしてはいけないかを論じた。作家のアブル・マンスル・アフメド(英語版)は、もしウルドゥー語が国語となるならば、東ベンガルの教育を受けた層は政府関連の職について「読み書きができず」、「不適格」とされてしまうだろう、と述べた。初のラストラバサ・サングラム・パリシャド(英語版)("国語運動委員会"; 国語としてベンガル語を支持する組織)が1947年12月の終わりに向けて結成された。タマドゥン・マジュリシュの教授ヌルル・フク・ブイヤン(英語版)が委員会を招集した。その後、国会議員のシャムスル・フク(英語版)が国語としてベンガル語を強く求めるための新たな委員会を招集した。議員のディレンドラナス・ダッタ(英語版)はパキスタンの憲法制定議会(英語版)に議員がベンガル語を話すことと公的な目的でのベンガル語の使用を許可することを可能にするための立法を提案した。ダッタの提案は東ベンガルの立法府議員Prem Hari Burman、ブペンドラ・クマル・ダッタ(英語版)、Sris Chandra Chattaopadhyayaや、ベンガル地方の人々から支持された。首相リヤーカト・アリー・ハーン(英語版)とムスリム連盟はパキスタン国民を分裂させるための企てであるとして提案を非難し、法律制定は挫折した。
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