じゆう‐げきじょう〔ジイウゲキヂヤウ〕【自由劇場】
自由劇場
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/19 02:08 UTC 版)
自由劇場(じゆうげきじょう)は、作家・小山内薫と歌舞伎俳優・二代目市川左團次が始めた新劇運動である。1909年(明治42年)から1919年(大正8年)にかけて9回の公演(試演)を行った。
- ^ 小山内・左団次著『自由劇場』(1912年)参照
- ^ 毛利三彌『イプセンの世紀末 後期作品の研究』(白凰社 1995)
- ^ 井上理恵『川上音二郎と貞奴』(社会評論社)
- ^ 大久保は帝国大学医学部出身。在学中は森鷗外の家に寄宿していた。1906年に大学卒業後、文部省留学生としてドイツ、フランスへ留学した。当時はミュンヘンにおり、現地でボルクマンの舞台を見ていた。小山内は大久保からの手紙を『読売新聞』(1909年12月19日付)で紹介している。なお、大久保は帰国直前の1910年6月、腸チフスに罹り、留学先で客死した。
- ^ これより先に(1908年1月)明治座で改革を行った際、市川翠扇と旭梅(団十郎の娘)、紫扇、松蔦の4人を起用し、翠扇が『袈裟と盛遠』の袈裟、旭梅が『ヴェニスの商人』のポーシャを演じた。これが日本の女優の始めとされる。『明治大正新劇史資料』p.53。
自由劇場
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「市川左團次 (2代目)」の記事における「自由劇場」の解説
左團次は松居松葉とともに欧米視察に出かけ、海外の新しい演出法や興行法を見て、大きな刺激を受けた。歌舞伎界の革新を志して帰国後明治座を改良しようとするが、周囲の反対で失敗。その後、小山内薫と意気投合し、会員制の自由劇場を始めた。 自由劇場は1909年(明治42年)11月に有楽座で第1回公演を行った。演目はイプセンの『ジョン・ガブリエル・ボルクマン』(森鷗外訳)で、ボルクマンには左團次が扮し、他に左團次一座の若い歌舞伎役者が出演した。鷗外の『青年』に自由劇場初演の様子が描かれている。 以後、自由劇場は第9回まで行われ、前後して発足した坪内逍遥の文芸協会とともに、新劇運動のはしりとなった。自由劇場は当時の知識人に新鮮な感動を与えた。
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