鶯亭金升とは? わかりやすく解説

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鶯亭金升

読み方おうてい きんしょう

戯作者新聞記者下総生。本名長井太郎梅亭金鵝の門人となり、「団団珍聞」の編集にあたる。「万朝報」「都新聞」などに戯作落語をかいたほか、長唄常盤津などの作詞をした。昭和29年(1954)歿、88才。

鶯亭金升

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/02 07:30 UTC 版)

鶯亭 金升(おうてい きんしょう、1868年3月16日慶応4年2月23日〉 - 1954年昭和29年)10月31日)は、日本の雑誌記者・新聞記者・遊芸的文芸作者。本名は長井総太郎。筆名に竹葉亭昌安・竹葉亭金升・鶯亭化七・台山辺人などがあった[1]

生涯

下総国八木谷村(現・千葉県船橋市八木が谷)の湯浅家[2]で生まれ、総太郎正安と名付けられた。父は長井筑前守昌言(まさのぶ)、母は可年。長井家は八木が谷ほかを治める家柄で、入り婿の昌言は千五百石の旗本。開港後の神奈川奉行などを務め、維新工部省の官吏に転じて、1873年に没した。

服部波山(画家、1827 - 1894)の私塾で書・画・漢学を学び、塾仲間と青春を楽しみ、その付き合いから團團社の『團團珍聞』(まるまるちんぶん)を知って投書を始めた。同誌の主筆梅亭金鵞に師事して鶯亭金升の号を貰い、門下の小山内薫(東亭扇升)や後の二代目市川左団次(総亭芸升)らと[3]、師を囲んで都々逸(情歌)を作った。母と同居した根岸は鶯の名所であり、それ故の『鶯亭』である。都々逸に限らず、落語川柳狂歌・戲文・茶番・小唄など庶民の遊びの文芸を好んで作った。長唄清元常磐津も作った。母にも俳諧の心得があった。

梅亭の勧めで1884年団団社の記者となり、1886年から珍聞誌の投書の選に当たり、1888年『お笑い草両面鏡』を連載し、途中から『当世道楽相』と改題した。挿画は小林清親が描いた。

金升と仁科縫との結婚の媒酌は小林清親夫妻が務めた。縫女の弟に花柳寿太郎、その息子で縫女の甥に十代目岩井半四郎がいる。

1890年(明治23年)秋から1年余神田松永町に住んだ時期には、喜多村緑郎ら八人が毎晩集まって、雑俳作りに夜を深した。

1892年(明治25年)(24歳)から、『改進新聞』の記者を兼務した。(団団社の野村文夫社長が改進党に属していた。)1895年、『改進新聞』が改名した『開花新聞』を退き、翌年万朝報社、1898年に中央新聞社、さらに『やまと新聞』・『読売新聞』・『都新聞』と転々して後、昭和初期から太平洋戦争中まで、長く『東京毎日新聞』に勤めた。日中戦争中の1941年10月に浅草の本法寺に建立された「はなし塚」(時局に鑑みて上演禁止を決定した禁演落語などを供養した記念碑)の揮毫を、「落語界の最長老」という理由で担当した[4]

敗戦後の1947年、『落語珍日本』を出し、その後も都々逸・狂句・雑俳の選者を続けた。

老いと戦いながら、1953年(昭和28年)秋に『明治のおもかげ』を出版し、直後に風邪を引いて全快せず、翌年秋に没した。享年86。『情歌院鶯亭日経居士』。墓は本立寺品川区東五反田)にある[5]

1889年に始まる肉筆の日記『むだ雅記』は、早稲田大学坪内博士記念演劇博物館に寄贈されたという[6]

主な著書

列記は、『表題』出版社(者)〈シリーズ名〉、発行年月、(その他)の順。

  • 『返咲園廼花』鶴声社、1886年6月
  • 『沙鍋調練坪内譚』(編著)共隆社、1886年10月
  • 『一笑人』(編著)漫遊会、1888年10月
  • 『乗合船 滑稽笑説』漫遊会、1888年12月
  • 『狂体発句集 初会』(編著)長井総太郎【自費】、1889年12月
  • 『碁打そば』(落語)(鈴木金次郎 編『花競落語叢書』金泉堂、1890年12月 に収録)
  • 『返咲園廼花』(編著)金盛堂、1891年12月
  • 『都々逸独稽古』博文館 〈東洋文芸全書 第16編〉、1892年2月
  • 『渡る雁が音』(編著)九皐館、1893年1月
  • 『実録恋寝刄』(編著)白井清栄門、1893年6月
  • 『河太郎奇行 滑稽洒落』(編著)藍外堂、1894年3月
  • 『征清もろこし談語』鳳林館、1894年11月(日清戦争期)
  • 『情歌万題集』団団社、1895年12月
  • 『俳諧百吟逸趣』(編著)長井総太郎【自費】、1896年4月
  • 『都都逸一千題』博文館、1898年12月
  • 新撰落語福』博文館、1900年9月
  • 『俗曲大全』(編著)博文館〈続帝国文庫 第36編〉、1901年9月
  • 『狂歌の栞』(編著)博文館〈風雅文庫〉、1902年4月
  • 『滑稽乗合船』(落語・義太夫・茶番狂言・座敷芸・戲文など)服部書店、1906年12月
  • 『金升落語集』求光閣、1907年5月
  • 『滑稽大博覧会(滑稽落語世界)』求光閣、1907年7月
  • 『江戸ッ子のチヨン髷』豊文館、1917年6月
  • 落語珍日本』玄文社、1948年7月
  • 『明治のおもかげ』山王書房、1953年
没後の刊行
  • 花柳寿太郎・小島二朔 編『鶯亭金升日記』演劇出版社、1961年10月
  • 『三遊派と柳派』〈落語名作全集 第2期 第2巻〉普通社、1962年 に収録)
  • 『明治のおもかげ』岩波書店岩波文庫〉、2000年6月
  • 『王子の狐火』(東雅夫 編『文豪てのひら怪談』ポプラ社〈ポプラ文庫〉、2009年8月 に収録)

脚注

  1. ^ 「年表」 清水勲 編『漫画雑誌博物館 明治時代編 団団珍聞1 自由民権期』国書刊行会、1986年、巻末[要ページ番号]
  2. ^ 八木が谷 - JLogos(『角川日本地名大辞典』からの転載)
  3. ^ 小山内薫久保栄、文芸春秋新社、昭和22、p23
  4. ^ 小島貞二『禁演落語』筑摩書房ちくま文庫〉、2002年、pp.17 - 20
  5. ^ 妙建山本立寺のご紹介”. 日蓮宗東京都南部宗務所. 2013年4月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年5月6日閲覧。
  6. ^ 延広真治 2000, p. 290.

出典

  • 鶯亭金升『明治のおもかげ』岩波書店〈岩波文庫〉、2000年6月16日。ISBN 978-4003116210 
    • 鶯亭金升「巻末に記す(作者の身の上話)」『明治のおもかげ』岩波書店〈岩波文庫〉、2000年6月16日、283-287頁。 
    • 延広真治「解説」『明治のおもかげ』岩波書店〈岩波文庫〉、2000年6月16日、289-302頁。 

外部リンク


鶯亭 金升

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「鶯亭金升」の記事における「鶯亭 金升」の解説

昭和29年1954年10月31日)は、雑誌記者新聞記者遊芸文芸作者本名長井太郎筆名竹葉亭昌安竹葉亭金升・化七台山辺人などがあった。

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