第2次政権
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/16 01:41 UTC 版)
「ホセ・マリア・ベラスコ・イバラ」の記事における「第2次政権」の解説
彼は1939年の選挙に再び立候補したが、僅差で自由急進党のアロヨ候補に敗れ去った。アロヨにはベラスコ・イバーラの人気も支持基盤も欠けていたため、この選挙は不正がおこなわれたとみなされた。ベラスコ・イバーラはこれに対しサリナス空軍基地を襲撃するクーデター計画を立てたが事前に計画は漏れ、ベラスコ・イバーラは再び亡命を余儀なくされた。 この間、1940年にはアマゾン地方の帰属をめぐってペルーとの間に戦端が開かれ、エクアドルは敗北して広大な領土を失った。これに市民は不満を持ち、ベラスコ・イバーラも亡命先のコロンビアからこの紛争の講和条約であるリオデジャネイロ議定書に反対を表明した。1944年5月28日、エクアドルで「名誉革命」と呼ばれたクーデターが起こり、彼は復権して帰国し共和国の指導者となり、立憲議会によって大統領に任命された。彼はエクアドル民主同盟を創設して社会党や共産党といった左派勢力と協調体制をとったが、左派の提出した憲法を否決して1946年に保守的憲法を採択し、1947年8月には閣内の陸海空の三国防相がクーデターを起こしてカルロス・マチェーノ大臣を政権の座に着け、ベラスコ・イバーラはまたも追放され、亡命を余儀なくされた。
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