第2次攻撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/23 06:31 UTC 版)
「マニラの戦い (1574)」の記事における「第2次攻撃」の解説
12月2日夜、林鳳の艦隊がマニラに到着するのが目撃された。最初の砲撃戦は夜明けに行われ、艦隊は錨を下ろして、Siocoが再び指揮する1,500人の海賊を配備した。サン・アグスティン教会を含む多くの海岸の家々に火をつけた後、Siocoは軍隊を3つの部隊に分けるように命じ、スペイン人を三方から包囲できる外に引きつけることを期待した。しかし、ラベサリスはSiocoの戦術を察知し、倭寇艦隊がより良い射撃位置を求めて移動しても、城壁内の防御陣地のほうが安全性が確保でき反撃に適していると見て、兵士が城壁を離れることを禁じた。最終的に、銃撃戦の中、Siocoは突撃を指示、3個部隊を後衛に残したまま、2方向から城壁を攻撃する命令を下した。 マニラ市民は当初、すべての攻撃を撃退したが、スペインのアラバルデロスの指揮官の一人、サンチョ・オルティス少尉が狙撃死、その結果彼の部隊は圧倒され、城壁は倭寇に開放された。倭寇は市内に入り、サルセードやマニラ市長のフランシスコ・デ・レオンの軍と交戦していたが、スペイン軍の大砲は倭寇艦隊を圧倒して港外に押し出していた。主戦場となったのは路上で、デ・レオンは倭寇に殺害されたが、その直後、Sioco自身もスペインの射撃手によって戦死した。指揮官を失った倭寇たちは、ついに城壁から追い出された。 多くの死傷者を出したが、サルセードは倭寇を浜辺に追いやったが、林鳳が数隻の船で400人の兵士の援軍を配備して戻ってきたため、彼らは城壁に戻らざるを得なくなった。林鳳は、Siocoが残した3つの部隊のうち1つを呼び寄せ、合計1000人ほどの兵を集めたが、これ以上の攻撃は無駄と判断して攻撃を中止した。林鳳は2隻の船に火を放ち、サルセドの注意をそらそうとしたが、スペイン人はその策略を見破り、略奪者達を倒してしまったという。結局、林鳳はすべての兵士を船に呼び寄せ、マニラからの攻撃を受けて海岸を完全に放棄した。
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