両軍の損害
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「ギルバート諸島沖航空戦」の記事における「両軍の損害」の解説
日本側の戦果判定では、一連のギルバート諸島沖の航空戦による戦果は空母だけでも8隻撃沈とされていた。同時期のブーゲンビル島沖航空戦の戦果と合わせると、アメリカ海軍の空母はほぼ全滅状態に陥った計算になる。これらは大本営発表により報じられ、12月6日には昭和天皇から古賀峯一連合艦隊司令長官へ勅語が発せられた。しかし、アメリカ側の記録によると軽空母「インディペンデンス」の損傷のほかは、目立った損害が無かった。日本側の戦果判定は、アメリカ側記録に照らして著しく過大な事実誤認だったと考えられている。ただし、『戦史叢書』の『中部太平洋方面海軍作戦(2)昭和十七年六月以降』は、アメリカ側の公表損害が虚偽である可能性に言及し、いまだ真相は不明であると結論付けている。 一方で、日本海軍の航空部隊の損害は軽いものではなく、機動部隊攻撃や索敵に出撃して未帰還となったものだけで40機に上った。ほかに空中戦で失った戦闘機も約20機、地上撃破された機体も少なくなかった。なかでも第755航空隊は壊滅的打撃を受けて、再建のためにテニアン島へ後退しなければならなくなった。ブーゲンビル島沖航空戦や、この直後に起きるマーシャル沖航空戦の損害も重なって、日本海軍の航空戦力は大きく低下する結果となった。 アメリカ海軍第50任務部隊は、攻略部隊の護衛やギルバート諸島の孤立化という任務を達成した。同部隊は、12月5日に今度はクェゼリン環礁やウォッジェ環礁などマーシャル諸島の日本軍拠点を空襲し、反撃する日本軍との間でマーシャル諸島沖航空戦を展開できるだけの十分な戦力が残っていた。
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両軍の損害
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日本軍(軍属を含む) 戦死者 10,022名~10,695名 戦傷者 446名(生存者を含む)。生還できたのは、残存者34名と捕虜302名。捕虜の多くは朝鮮出身の軍属で、戦闘開始早々に米軍に投降した。実際の戦闘員で捕虜になったのは負傷などで体の自由がきかなかった14名のみ。 アメリカ軍 戦死者1,684~戦死者 2,336名 戦傷者7,160 ~ 戦傷者 8,450名 戦病者 数千名。第81歩兵師団だけで2,500名以上、第1海兵師団も含めると5,000名以上いるという説がある。
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両軍の損害
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第1次攻撃隊の攻撃では、哨戒艇Terre-Nwuveに魚雷1本が命中したが不発であった。第2次攻撃で再びTerre-Nwuveに魚雷が命中、搭載爆雷が誘爆しダンケルクにも被害をもたらした。第3次攻撃ではタグボートエストレル(Esterel)に魚雷が命中し、エストレルは沈没した。 イギリス軍は少なくとも魚雷5本は確実にダンケルクに命中したと判断していた。 イギリス側では、第3次攻撃隊のスクア1機が損傷し不時着したが、搭乗員は駆逐艦によって救助された。 この攻撃でもイギリス海軍はダンケルクを撃沈できず、フランス側ではダンケルクに応急処置を施し、地中海を横断してトゥーロンに帰還させてしまった。
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両軍の損害
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ウィキメディア・コモンズには、テニアンの戦いに関連するメディアがあります。 日本軍戦死者 約8100名 生存者 313名 アメリカ軍戦死者 389名 戦傷者 1816名
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両軍の損害
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日本軍戦死者 約1100名(ほぼ全員) 生存者 3名 米軍戦死者 約122名 日本側の生存者はフェザーストン事件に遭遇した。
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両軍の損害
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日本軍 元山空 雷撃隊:被撃墜(自爆・九六式陸上攻撃機)1(戦死7人)、被弾(隊内修理可能)4 美幌空 爆撃隊:被弾(隊内修理可能)10 雷撃隊:被弾(隊内修理可能)3 鹿屋空 雷撃隊:被撃墜(自爆・一式陸上攻撃機)2(戦死14人)、被弾(大破)2、被弾(要航空廠修理)2、被弾(隊内修理可能)8 イギリス軍 沈没:戦艦プリンス・オブ・ウェールズ、巡洋戦艦レパルス 戦死:フィリップス大将、リーチ大佐ほか将兵840名。 日本軍の参加機の多くは被弾して工廠修理2機、隊内修理25機、喪失機ふくめ21名戦死という被害を出し、2隻の対空砲火の激しさを証明している。日本の攻撃隊の内一機は佛印南部に不時着している。 また、翌11日に松永少将は追加報告を行い、その中に「巡洋艦一隻(或ハ嚮駆)撃沈ヲ追加ス」とあるが、巡洋艦または嚮導駆逐艦の沈没は搭乗員の誤認であり、巡洋艦は存在せず、駆逐艦も沈没していない。これは水平爆撃を行った際の報告である。 両艦の戦死者が意外に少ないのは、日本機は駆逐艦による救助作業を全く妨害しなかったためである。沈没を確認した日本機は敵将兵の戦闘をたたえて翼を振っただけではなく、後日現場に花束二個を投下、敵味方の戦死者に捧げた。 小沢治三郎は、フィリップス戦死の報が届いた時、その死を悼み、「いずれ、我々にも同じ運命がくる」と、暗澹たる口調で呟いた、という。
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両軍の損害
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 04:01 UTC 版)
この戦いにおけるアメリカ軍の戦死者・負傷者・行方不明・捕虜は合わせて76,000人から87,559人[要出典]にも及ぶ大損害で、一説には第二次世界大戦における最大級のアメリカ軍の人的損失とも言われおり、戦死者の8,607人~約19,000人は太平洋戦線の最大の激戦となった沖縄戦の20,195人に次ぐ規模となっている。さらに、人的損失のなかの約20,000人は捕虜であり、シェーンベルグ(英語版)では包囲された第106歩兵師団の兵士など約9,000人が一度に降伏して捕虜となっているが、これは第二次世界大戦においては、アメリカ軍が被った最悪の敗北とも言われているフィリピンの戦いのバターンの戦い(英語版)でのアメリカ極東陸軍によるアメリカ軍24,000人(うちアメリカ人12,000人、アメリカ陸軍正規兵であるフィリピン・スカウト(英語版)12,000人)、フィリピン軍のフィリピン人50,000人以上の大量降伏に次ぐ規模となった。 一方、ドイツ軍の損失は更に甚大であり、戦死者・負傷者・行方不明・捕虜の人的損失は81,834人もしくは10万人から12万人と諸説あるが、人的損失に加えて物資的な損失も甚大で、装甲車両の損失は800輌、なかでも主力戦車であったV号戦車パンターの損失は壊滅的で、バルジの戦いでは415輌のパンターが投入されたが、2週間で180輌が撃破、135輌が損傷や故障で使用不可で、まともに生き残っていたのはわずか約100輌となっていた。これらの損失を補充するのは不可能であり、ドイツ軍の崩壊を早める引き金ともなった。 ベルギー国民の受けた損害も大きく、「バルジの戦い」の期間内に約3,000人が死亡したとも言われている。ドイツ軍は作戦目標となったアントワープやリエージュにV1飛行爆弾やV2ロケットを大量に撃ち込んでいるが、侵攻初日の12月16日には映画館のシネマレックスにV2ロケットが命中、映画鑑賞中の連合軍兵士296人を含む567人が死亡した。死亡したベルギーの民間人の多くが子供であった。ほかにもパイパー戦闘団など侵攻してきたドイツ兵により虐殺されたベルギー国民も多数に上った。激戦地となったバストーニュ市民の受けた被害も大きく、市街の1,250戸の住宅のうち、250戸が全壊、450戸が何らかの被害を受けて居住不能となった。数千人が戦火に巻き込まれたが、そのうちで782人が命を落としている。連合軍の砲爆撃に巻き込まれて死亡したベルギー国民も多く、少なくともラ・ロッシュで120人、サン・ヴィトで250人、マルメディで300人、ウーファリズで200人の民間人が死亡している。
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両軍の損害
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日本軍-戦死311名、不明301名、戦傷311名(収容者1318名中。なお残りも大半は歩行困難) 連合軍オーストラリア軍-戦死・不明167名、戦傷206名 アメリカ軍-戦死14名、戦傷若干
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両軍の損害
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/10 05:26 UTC 版)
戦闘の結果、タラワ島を守備した日本軍は、文字通り全滅した。捕虜となって生き残った者は、負傷して意識不明の状態で捕えられた者などごく一部だけであった。河津幸英は日本側の死亡率が著しく高い理由を、米軍が、負傷したりして無抵抗の日本兵・軍属までも皆殺しにしたためであると推定している。また、日本兵の中には捕虜になることを避けるため、自決する者もいた。米軍が日本兵を徹底的に殺害した背景として、日本軍が降伏せずに最後まで抵抗する傾向があったため、掃討戦を十分に行う必要があったからとする見方もある[要出典]。 一方、米軍の人的損害も極めて大きなもので、恐怖のタラワ・マキンと呼ばれるほどであった。このことはアメリカ本国でも報道され、海軍や海兵隊は指揮に問題があったのではないかと批判を浴びた。また記録映画を公開したところ、米軍の重傷者や遺体の映像によって一時的に志願兵の応募率が低下したという騒動が起きた。 (作戦指導に批判の声が上がる一方で)「タラワ」の名はアメリカ国内に知れ渡った。それは、アメリカ国民の勇気と犠牲の精神を象徴するものとして、独立戦争中に持久戦に耐えたフォージ渓谷、テキサス独立戦争でメキシコ軍に対してアメリカ側独立軍が全滅したアラモ砦、第一次世界大戦の激戦地ベローウッド、そしてガダルカナル島と並んで、国民の記憶に長く留まる地名となったのだ — ユージーン・スレッジ/伊藤真[要曖昧さ回避]・曽田和子訳『ペリリュー・沖縄戦記』40項 本島の戦いおよびマキンの戦いでの苦戦は、米軍が水陸両用作戦の改良に力を入れるきっかけとなり、その経験は翌年のクェゼリンの戦いで生かされた。 日本軍 戦死者 4713名 生存者軍人 17名 内地出身軍属 14名 朝鮮出身軍属 129名 米軍 戦死者 1009名 戦傷者 2296名
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両軍の損害
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/28 05:18 UTC 版)
日本軍:64,000人(48,000とも) アメリカ軍:24,000人(12,000とも) いずれも戦死傷者。ただし諸説あり(嘉数戦のみの統計がほとんど無いため)。
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