決着のつかない戦闘
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/12/17 09:32 UTC 版)
「ポンディシェリーの海戦」の記事における「決着のつかない戦闘」の解説
ポコックはポンディシェリーとナーガパッティナムの間でダシェ艦隊を待ち受けていた。ダシェ艦隊が増援を受けている間、ポコック艦隊も補強されていた。ポコック艦隊は1758年には船9隻だったのが、今や戦列艦9隻とイギリス東インド会社の武装した船2隻と計11隻になっていた。ポコック艦隊は数で優勢だった上、戦列艦が多かったため質もダシェ艦隊より上であった。戦列艦の火力は例え大砲の数が同じでも、東インド会社の船の火力を上回り、また戦列艦の船員はみな戦闘に特化した訓練を受け、一方のイースト・インディアマンはその根底が商船であり、船員たちは戦闘に特化した訓練を受けなかった。 ポコックはオランダのナーガパッティナム総督から水域通過の許可を得られなかったため、セイロン島のトリンコマリーで燃料を補給しようとした。その最中の9月2日朝、ポコック艦隊のフリゲートのリヴェンジがセイロン沖でダシェ艦隊を発見した。ポコックはすかさず追跡しようとしたが、風向や水流が悪かったため追いついたのは10日のことだった。このとき、両艦隊はポンディシェリーの南のポルト・ノヴォ港に近いところにいた。ポコックとダシェ両提督はそれぞれ10時と11時に単縦陣を形成して戦闘に臨んだ。ダシェは自軍が格下にもかかわらず何が何でも押し通すと戦いに挑んだ。戦闘は激しい砲撃の応酬となり、ダシェ艦隊はポコック艦隊の旗艦に砲撃を集中して、それでポコック艦隊を撃破しようとしたが、逆にポコック艦隊の砲撃で激しい損害を受けた。戦闘が2時間続いた後、夥しい損害を受けたダシェ艦隊の縦陣は崩壊しはじめ、指揮が混乱した。ダシェ艦隊の旗艦で74門艦のゾディアックを含むフランス船数隻が修理をしようとして戦線を離脱した。ダシェの副官が操船中に戦死すると、その代役が船を戦列から離れる命令を下し、ダシェはそれを取り消そうとしたときにぶどう弾の直撃を受けて重傷を負った。 ダシェ艦隊の旗艦ゾディアックが離脱すると、ほかの艦船もそれに倣った。ポコック艦隊もひどく損傷しており、追撃できる状況になかった。あるイギリスの歴史家によると、「戦闘の後、イギリス船のうち帆の半分を揚げるものはなく、一方フランス船は1隻がトップマストを失ったほか全ての帆を維持した」という。帆走時代の海戦の常である通り、この海戦でも両方が勝利を主張した。ポコックは制海権を保ったが、戦術的には積荷を保持したまま海域を通過したダシェ艦隊のほうが上手だった。ポコック艦隊はその後、フリゲートのリヴェンジをフランス艦隊の監視に派遣しつつ、ナーガパッティナムに戻って船を修理した。 両軍の損害は不明とする文献もあるものの、フランスの死傷者1,500、イギリスの死傷者569とする文献もある。
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