連合艦隊司令長官へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 14:46 UTC 版)
1933年(昭和8年)、佐世保鎮守府司令長官に親補される。友鶴事件が発生し、査問委員会の一人として佐世保に米内を訪ねた森田貫一機関中将に対し、米内は徹底した調査を求めた。調査の結果、設計上の問題が判明し、強度不足の艦艇は改造されることになった。こうした結果を出せたのは、米内が保身に走らなかったからだと森田は評している。1934年(昭和9年)、第二艦隊司令長官に親補される。 1935年(昭和10年)、横須賀鎮守府司令長官に親補される。1936年(昭和11年)2月26日、二・二六事件発生の際、米内は柳橋の待合茶屋に宿泊しており、事件のことは何も知らず、朝の始発電車で横須賀に帰った。鎮守府に着いた米内は参謀長の井上成美とともにクーデター部隊を「反乱軍」と断定、制圧に動いた。 12月1日、連合艦隊司令長官に親補される。
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