連合艦隊の最期
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「矢矧 (軽巡洋艦)」の記事における「連合艦隊の最期」の解説
1945年(昭和20年)3月27日 菊水作戦直前の第二水雷戦隊の編制は以下のとおりである。 旗艦:矢矧第7駆逐隊:響、潮(横須賀待機) 第17駆逐隊:磯風、浜風、雪風 第21駆逐隊:朝霜、初霜、霞 第41駆逐隊:冬月、涼月 1945年(昭和20年)4月1日、アメリカ軍が沖縄に上陸を開始した。4月6日、天一号作戦に参加すべく、第二水雷戦隊司令官古村啓蔵少将が座乗する矢矧は徳山沖に停泊中の戦艦大和に合流。矢矧の原為一艦長は少尉候補生23名を退艦させた。艦内の倉庫にあった米麦20日分も、5日分のこして徳山軍需部に返還している。13時、大和士官室で草鹿龍之介連合艦隊参謀長が第二艦隊司令官・艦長達に作戦を説明すると一斉に不満の声があがり、原は「敵の後方補給路を『矢矧』で暴れて寸断する」と提案している。15時20分、第二艦隊所属の10隻(旗艦《大和》、第二水雷戦隊《矢矧、17駆〔磯風、浜風、雪風〕、21駆〔朝霜、初霜、霞〕》)は沖縄へと出撃。原は乗組員に「死に急ぐな」と訓示したという。また沖縄に到着後は座礁して砲台になる事や、宮本武蔵の話をしたという乗組員の回想もある。原自身は矢矧が被害担当艦となることで他艦への被害を減らそうと考えていたと回想している。夕刻、伊予灘にて二水戦は大和を目標とした編隊訓練と襲撃運動訓練を実施した。 詳細は「坊ノ岬沖海戦」を参照 4月7日午前6時頃、第二艦隊は大隅海峡を通過、針路を280度とした。午前6時57分、駆逐艦朝霜が機関故障を起こして速力が低下、第二艦隊から落伍した。矢矧では、搭載水上偵察機を事前に退避させるよう意見具申された。8時15分に零式水上偵察機1機(富原辰一少尉/機長、松田上飛曹/操縦、佐々木上飛曹/電信)を鹿児島県指宿基地に戻した。 12時32分から始まったアメリカ機動部隊の空襲では矢矧は大和に次ぐ大型艦であったため集中して狙われることになった。天候は不良で、雲高3000フィート(1000m以下)、視界5 - 8浬。戦闘開始早々の12時46分、アメリカ軍の雷撃機TBF/TBMアベンジャー(空母ベニントン所属機)が投下した魚雷1本が命中し、航行不能となった、13時00分にも矢矧の艦尾に魚雷が命中した。最初に命中したのは右舷後部という見解もある。いずれにせよ13時前には航行不能となり、このため矢矧は護衛すべき大和から離れてしまった。矢矧からは10-20km遠方に左舷に傾斜した大和が見えたという。標的状態となった矢矧は多数の魚雷や爆弾直撃、至近弾で損傷が拡大した。最初の魚雷命中直後に魚雷を投棄。重巡三隈・鈴谷のように酸素魚雷の誘爆による致命傷を避けることが出来た。そのため魚雷2本・爆弾1発で沈んだ矢矧の姉妹艦である(能代)と比較して長い時間、戦闘を継続していた。「もう早く沈んでくれと思うくらい沈まなかった」という艦橋で勤務していた池田武邦の回想が残っている。 一方、麾下の第二水雷戦隊各艦も次々に損傷していった。 まず、単艦で落伍していた朝霜が4発の直撃弾で沈没し総員(326名)が戦死した。次に浜風が12時48分に直撃弾と魚雷の直撃で爆沈した。涼月は艦前部への直撃弾で大破し戦線を離脱。霞は被弾して航行不能となった。この時点での大和は魚雷や爆弾を数発被弾して多少の損害を受けたもののまだ余裕があり、二水戦旗艦(矢矧)の状況を確かめるべく反転しつつあったという。 13時すぎ、駆逐艦磯風(第17駆逐隊司令駆逐艦)のみが矢矧を護衛していた。古村司令官は矢矧での水雷戦隊指揮は不可能と判断。健在艦を率いて沖縄へ突入すべく、アメリカ軍機の空襲がやんだ時間を見計らって磯風(17駆司令艦)に接近命令を出した。磯風は13時28分に矢矧に横付けを試みたが、直後にアメリカ軍機攻撃隊第二波が来襲したため離れた。二水戦参謀の進言で艦載艇を海面に降ろしたが、爆弾の直撃で将兵と共に四散。このため第二水雷戦隊司令部が移乗するには、磯風側が矢矧に横付けするしか方法がなくなった。磯風は速度を落として矢矧に横付けした瞬間を米軍機に襲撃され、13時56分に被弾。至近弾により速力12ノットに低下、やがて航行不能となった。 救援の見込みがなくなった矢矧は最終的に合計魚雷6-7本・爆弾10-12発を被弾(アメリカ軍記録、矢矧に対し爆弾56発、魚雷17本、機銃9970発を投下・発射)、14時5分に沈没した。13時20分、または13時30分頃という回想もある。 矢矧の沈没から十数分後の14時23分前後、大和も大爆発を起こして沈没した。矢矧から脱出した将兵は、遠方に大和が爆発した際に発生した巨大なキノコ雲を目撃している。14時40分、脱出者に対する銃撃を終えたアメリカ軍機が離脱した。17時以降、駆逐艦3隻(初霜、雪風、冬月)が矢矧乗組員の救助を開始した。矢矧の乗組員446名が戦死、133名が負傷した。原(矢矧艦長)を含む乗組員500名以上と、古村司令官を含む第二水雷戦隊司令部が生還した。矢矧の乗組員と大和の乗組員を救助した駆逐艦冬月の士官によれば、大和の乗組員は重油で真っ黒、矢矧の乗組員は長い対空戦闘により顔が火傷で腫れていたという(原艦長によると皆、重油で真っ黒だったとも言われている)。 4月15日、原大佐(矢矧艦長)は矢矧艦長の職務を解かれた。4月20日、初霜の艦上で解散式が行われ、第二水雷戦隊は解隊された。6月20日、除籍。
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