仏軍によるザールブリュッケン占領
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 01:16 UTC 版)
「普仏戦争」の記事における「仏軍によるザールブリュッケン占領」の解説
ザールブリュッケン ザールブリュッケン ナポレオン3世はモルトケの全軍の動員・配備が完了する前に攻勢を掛けるよう国内から大きな圧力を受けていた。フロサール将軍による偵察では、ライン軍のすぐ前方にある国境の町ザールブリュッケンを警備するプロイセン第16歩兵師団を確認したのみであり、このため、ライン軍はザールブリュッケンの占領を企図して7月31日ザール川に向けて進軍した。 一方、プロイセン側は偵察活動により、フランス軍主力がメス東方にあり、アルザスが手薄であることを知るや、予備軍を第2軍に投入し、第1・2軍で仏主力の攻撃を計画した。 フロサール将軍の第2軍とバゼーヌ元帥の第3軍は8月2日ドイツとの国境を越え、ザールブリュッケンのプロイセン第16歩兵師団第40連隊に一連の直接攻撃を掛け始めた。ザールブリュッケン周辺での小競り合いでは、フランスのシャスポー銃がプロイセンのドライゼ銃に対して優位に立ち、フランスの小銃手は一様にプロイセンの小銃手の射程圏外から攻撃できた。 しかしながら、プロイセン軍は頑強に抵抗し、両軍の損害はプロイセン軍83名に対してフランス軍86名であった。ザールブリュッケンは兵站の面でみても大きな障害であることが分かった。ザールブリュッケンからのびる鉄道だけがドイツの後背地域へと続いているが、ザールブリュッケンは一軍を以て容易に守備でき、かつまたこの地域で唯一の河川は国境に沿って流れている。 プロイセン主力が未だ到着しておらず、プロイセンはこの街を明け渡さざるを得なかった。普仏戦争を通じ、最初に国境を超えたのはフランスであり、またこれがフランスにとって最初で最後の勝利となった。
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