仏軍のイベリア半島自主撤退までとは? わかりやすく解説

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仏軍のイベリア半島自主撤退まで (1808年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 10:09 UTC 版)

アーサー・ウェルズリー (初代ウェリントン公爵)」の記事における「仏軍のイベリア半島自主撤退まで (1808年)」の解説

1808年8月には全軍揚陸完了しポルトガル軍合流して1万5000人の軍勢でもってフランス軍占領されリスボン向けて進軍開始した。これに対してフランス軍ポルトガル遠征軍司令官ジャン=アンドシュ・ジュノー将軍はアンリ・フランソワ・ラボールド(フランス語版将軍率い4000人ほどの軍勢迎撃差し向けた両軍8月17日ロリカ戦い英語版)で激突したが、ライフル部隊先行させることでラボールド軍を押し戻すことに成功した続いてジュノー将軍自らがポルトガル遠征軍の総兵力三分の二率いて出陣してきた。両軍8月21日にヴィメイロの戦い英語版)で衝突したが、サー・アーサーの防御的布陣功を奏しフランス軍軽歩兵狙撃大砲砲撃食らわせ、さらに縦列進軍してきたフランス軍に対して横列イギリス軍前面側面から銃撃浴びせかけることで敗走させることに成功した。 この敗北ジュノー将軍は、8月30日にイギリス・ポルトガル駐留軍総司令官サー・ヒュー・ダルリンプル准男爵英語版将軍との間にシントラ和平英語版)を締結した。これによりポルトガル駐留フランス軍イギリス船に乗って海上からフランスまで撤退することになった。しかしこの和平イギリス国民から不評であり、サー・アーサーも徹底的にフランス軍と戦うことを希望していたために落胆したという。 またこの後イギリスポルトガル駐留軍総司令官となったサー・ジョン・ムーア(英語版将軍とも険悪な関係になったため、サー・アーサーはひとまず帰国することになった

※この「仏軍のイベリア半島自主撤退まで (1808年)」の解説は、「アーサー・ウェルズリー (初代ウェリントン公爵)」の解説の一部です。
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