仏軍のイベリア半島自主撤退まで (1808年)
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「アーサー・ウェルズリー (初代ウェリントン公爵)」の記事における「仏軍のイベリア半島自主撤退まで (1808年)」の解説
1808年8月には全軍の揚陸を完了し、ポルトガル軍と合流して1万5000人の軍勢でもってフランス軍に占領されたリスボンへ向けて進軍を開始した。これに対してフランス軍ポルトガル遠征軍司令官ジャン=アンドシュ・ジュノー将軍はアンリ・フランソワ・ラボールド(フランス語版)将軍率いる4000人ほどの軍勢を迎撃に差し向けた。両軍は8月17日にロリカの戦い(英語版)で激突したが、ライフル部隊を先行させることでラボールド軍を押し戻すことに成功した。 続いてジュノー将軍自らがポルトガル遠征軍の総兵力の三分の二を率いて出陣してきた。両軍は8月21日にヴィメイロの戦い(英語版)で衝突したが、サー・アーサーの防御的な布陣が功を奏し、フランス軍に軽歩兵の狙撃と大砲の砲撃を食らわせ、さらに縦列で進軍してきたフランス軍に対して横列のイギリス軍が前面・側面から銃撃を浴びせかけることで敗走させることに成功した。 この敗北でジュノー将軍は、8月30日にイギリス・ポルトガル駐留軍総司令官サー・ヒュー・ダルリンプル准男爵(英語版)将軍との間にシントラの和平(英語版)を締結した。これによりポルトガル駐留フランス軍はイギリス船に乗って海上からフランスまで撤退することになった。しかしこの和平はイギリス国民から不評であり、サー・アーサーも徹底的にフランス軍と戦うことを希望していたために落胆したという。 またこの後、イギリスのポルトガル駐留軍総司令官となったサー・ジョン・ムーア(英語版)将軍とも険悪な関係になったため、サー・アーサーはひとまず帰国することになった。
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