仏軍のポルトガル再侵攻を撃退 (1808年-1811年)
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「アーサー・ウェルズリー (初代ウェリントン公爵)」の記事における「仏軍のポルトガル再侵攻を撃退 (1808年-1811年)」の解説
1808年9月にムーア将軍率いる英軍がスペインへ進軍すると、同年11月にフランス軍もナポレオンの直接指揮のもとスペイン侵攻を再開し、12月にはマドリードを再占領した。これに対して英軍はフランス軍との決戦を避け撤退した。英軍はアメリカ独立戦争敗北の教訓で大陸奥深くでの長期戦を避け、圧倒的な制海権を活用し、攻撃しては海岸まで撤退することを基本戦法としていたからだが、ナポレオンはイギリス軍の撤退を弱気と誤認し「イギリス軍はフランス軍と戦う資格がない」と豪語した。 ナポレオンは翌1809年1月に本国の政治情勢やオーストリアの不穏な動きからニコラ=ジャン・ド・デュ・スールト将軍に後を任せてパリに帰還した。入れ替わるようにサー・アーサーが同年4月にポルトガル駐留英軍の総司令官として再度ポルトガルに派遣された。サー・アーサー率いる英軍は、5月7日にオポルト南方のドウロ川渡河を敢行してスールト将軍率いるフランス軍の不意を突き、ドウロの戦い(英語版)でこれを破り、スールト軍をポルトガルから撤退させた。 続いてクロード・ヴィクトル=ペラン元帥率いるフランス軍2万3000人がポルトガル向けて進軍してきた。サー・アーサーは戦場をスペインに移してスペイン軍と合流のうえ、7月21日、スペインのタラベラ・デ・ラ・レイナに結集していたヴィクトル軍に攻撃をかけた。撤退するヴィクトル軍をスペイン軍に追撃させたが、ヴィクトル軍はマドリード駐留部隊と合流して反転攻勢に転じ、スペイン軍を追い返した。これを受けてサー・アーサーはタラベラに守備布陣を敷いてフランス軍を待ち受け、7月28日のタラベラの戦い(英語版)で激戦の末にフランス軍を退けた。 サー・アーサーはこの戦功でウェリントン・オブ・タラベラ子爵(Viscount Wellington of Talavera)、ドウロ・オブ・ウェルズリー男爵(Baron Douro of Wellesley)の爵位を与えられ、貴族に列した。 タラベラ戦後、ウェリントン子爵は軍をポルトガルに戻すとともにリスボン北方に極秘裏にトレス・ヴェドラス線(英語版)を建設してフランス軍来襲に備えた。この防衛線の存在は自軍にも伏せられていた。 1809年10月にイギリス本国でスペンサー・パーシヴァル内閣が成立した。同内閣に外務大臣として入閣した兄ウェルズリー侯爵や半島戦争を重視する陸軍・植民地大臣ポートランド公爵の後押しでウェリントン子爵のポルトガル駐留軍は3万人規模に増強された。 1810年5月よりアンドレ・マッセナ元帥率いるフランス軍がポルトガル・スペイン国境のシウダ・ロドリーゴとアルメイダ(ポルトガル語版)の要塞に攻撃をかけてきた。両要塞が夏まで持ちこたえている間、南の防衛を固めつつ、小麦の収穫を素早く終わらせた。両要塞が陥落した後、ブサコ(ポルトガル語版)まで後退して守備の布陣をとり、9月末のブサコの戦い(英語版)でフランス軍を退けた。 ブサコの戦いに勝利したものの、ウェリントン子爵は軍をトレス・ヴェドラス線まで後退させた。マッセナ元帥率いるフランス軍が追撃に出てきたが、トレス・ヴェドラス線の入り組んだ塹壕や大砲用の落とし穴が広がる光景を見てマッセナ元帥は愕然とし、「奴がこの山を築いたのか」と叫んだという。結局マッセナ元帥の軍は4か月ほど粘ったものの、補給状態が壊滅的となり、1811年3月にはスペインに撤退していった。
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