仏足跡信仰の日本への伝来
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 09:23 UTC 版)
「仏足跡歌碑」の記事における「仏足跡信仰の日本への伝来」の解説
薬師寺の仏足石は、石の上面を磨いて仏足跡を刻み、その側面に仏足石造立までの経緯を銘文に刻んでいる。そこには、仏足跡がインドから中国を経て日本へ伝来した経路や、造立の動機が次のように記されている。 唐の貞観のころ、王玄策が中天竺の磨掲陀国の仏堂内にあった仏足跡より複写して持ち帰り、唐の普光寺(長安)の石に彫りつけた。それを天智天皇のころの日本の国使・黄書本実がその普光寺の仏足跡から写して持ち帰り、これを奈良の右京四条一坊の禅院に遺した。その禅院の檀主である文室真人浄三は、753年(天平勝宝5年)に亡夫人・従四位下茨田郡王法名良式の菩提の意から、同年7月15日から同月23日まで13日間を要して、同院に蔵していた仏足跡を石に刻した。(趣意) 「文室浄三が亡き母・茨田女王の追善供養のために」と、その動機を記しているが、尊い釈迦の足跡を石に刻むがゆえに供養となる。その釈迦の足裏は扁平で、千輻輪相があることは三十二相の一つで、釈迦のみに与えられた妙相である。『雑阿含経』第4に、「釈迦に近づくには、その足跡に随っていけば、いつかはきっと側に行ける。」また、「その場所に立って、ありがたい教えを説かれた。」とあり、山下正治は、「それらの考えから足跡信仰が始まったものと思われる。」と述べている。『望月仏教大辞典』には、「古い時代の彫刻や壁画等には仏像を現わさず、菩提樹形、塔形、または輪宝形等とともに仏の記号としての足下千輻輪を刻画していたことにより、その後、この習慣が転じて、ついに仏足石礼拝の慣わしを生ずるに至った。(趣意)」とある。千輻輪相は、インドの原始仏教時代において、釈迦の標識であったのである。 1968年(昭和43年)の報告では、日本に残っている仏足石の数は、107個とあるが、薬師寺の仏足石以外はすべて江戸時代から昭和のはじめに作られたものである。薬師寺の仏足石が753年に造立してから約1000年間、仏足石が注目された記録がなく、ここに仏足石の断絶がある。1752年(宝暦2年)、江戸の医官であった野呂実夫が、木版した仏足石を発行して、ようやく世間に知られるようになった。江戸時代以後の仏足石は、この木版の図を真似して製作されたものと考えられる。その後、北は山形県から南は宮崎県までの広範囲で製作され、安置されるようになった。東京の浄真寺の仏足石は、相撲の土俵のように高く盛ったところに安置され、仏足跡歌の内容のごとく、仏足石を真ん中に、周囲をまわりながらお参りした様子が伺える。
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