仏足石と歌碑の所在について
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「仏足跡歌碑」の記事における「仏足石と歌碑の所在について」の解説
1681年(延宝9年)に成った林宗甫の『和州旧跡幽考』によれば、江戸時代初期に現在のごとく、仏足石と歌碑がともに薬師寺に伝存したとある。このように、寛永以来の書には、何れもみな薬師寺での所在を記録しているが、それ以前の所在がはっきりしない。 唐より仏足図を将来して右京禅院に蔵していたことは、仏足石の銘文により明らかである。その禅院には、僧・道昭が住し、はじめ飛鳥にあったが、『日本三代実録』には、「711年(和銅4年)に平城京に移した。」とあることから、平城遷都とともに飛鳥から移したと考えられる。正倉院文書「写疏所解」には、747年(天平19年)当時、その仏足図が同院に存在していた記録があり、銘文の内容と一致する。そして、その仏足図を原本にして、753年に仏足石を刻したことまでは銘文により明白である。が、その仏足石をどこに安置したかについては銘文に記載がなく、また、歌碑との関係についても全く触れていない。 一方、歌碑の2番歌は『拾遺集』に収載され、その題詞よれば明らかに山階寺(興福寺)に所在した仏足跡であることを指している(#光明皇后説を参照)。これにより、森川竹窓が、「歌碑を山階寺より薬師寺に移した。」と述べているように、仏足石と歌碑はともに興福寺にあったとの説が生まれた。しかし、僧・契沖、僧・潮音、狩谷棭斎らは、『拾遺集』に山階寺とあるのは誤りで、初めから薬師寺にあったものとして論を立てている。いち早くその『拾遺集』の題詞に疑問を提起したのは契沖であり、「現に薬師寺に存在する上、薬師如来のことを詠んだ歌(15番歌)もあることから、昔から薬師寺にあったものである。山階寺にあったというのは伝聞の誤り。(趣意)」としている。井上通泰も、「“薬師”を詠んだ歌がある。薬師寺の本尊である“薬師”は世に希なる名作であり、寺の名はやがてこの仏像より付けられた。ゆえに、仏足石は初めから薬師寺にあったのである。(趣意)」と述べている(#15番歌の解釈についてを参照)。 15番歌の薬師如来説を否定している大井重二郎は、その山階寺について、「光明皇后は、山階寺にあった仏足石、すなわち薬師寺のそれとは別個の仏足石について詠まれたものと信じたい。」と述べ、結論としては、「仏足石は薬師寺に原在した。これは禅院の仏足図に拠ったものである。あるいは禅院において造顕したものを、禅院の衰亡によって奈良朝を経て、平安朝ごろに禅院と特殊な関係にあった薬師寺境内に移動したことも考えられる。」と述べている。また、「万一、仏足石に禅院より移動の事実があったとすれば、同時に歌碑も移動したと見るのが妥当と思われる。」としている。 なお、以下の伝説がある。 薬師寺志によると、仏足石は、もと薬師寺の西にある叢中の小池に埋もれてあったのを、寛永の末に掘り出して薬師寺に移したという。 この仏足石は古来から薬師寺にあったものではなく、もと興福寺東大門の傍らにあったものを移したという。 この歌碑は中古以来、薬師寺から持ち去られて、一たび近くの橋梁となっていたのを、奈良の墨工・松井元景が見つけて再建したという。(趣意)
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