第二軍による旅順攻略
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 05:03 UTC 版)
詳細は「旅順口の戦い」および「旅順虐殺事件」を参照 9月21日、海戦勝利の報に接した大本営は、「冬季作戦大方針」の1)旅順半島攻略戦を実施できると判断し、第二軍の編成に着手した。その後、まず第一師団と混成第十二旅団(第六師団の半分)を上陸させ(海上輸送量の上限)、次に旅順要塞の規模などを偵察してから第二師団の出動を判断することにした。10月8日、「第一軍と互いに気脈を通し、連合艦隊と相協力し、旅順半島を占領すること」を第二軍に命じた。21日、第二軍は、海軍と調整した結果、上陸地点を金州城の東・約100kmの花園口に決定した。 第一軍が鴨緑江を渡河して清の領土に入った24日、第二軍は、第一師団の第一波を花園口に上陸させた。その後、良港を求め、西に30km離れた港で糧食・弾薬を揚陸した。11月6日、第一師団が金州城の攻略に成功。14日、第二軍は、金州城の西南50km旅順を目指して前進し、18日、偵察部隊等が遭遇戦を行った。21日、総攻撃をかけると、清軍の士気などが低いこともあり(約12,000人のうち約9,000人が新募兵)、翌22日までに堅固な旅順要塞を占領した。両軍の損害は、日本軍が戦死40人、戦傷241人、行方不明7人に対し、清軍が戦死4,500人(うち金州とそこから旅順までで約2,000人)、捕虜600人。 旅順を簡単に攻略できたものの、大きな問題が生じた。『タイムズ』(1894年11月28日付)や『ニューヨーク・ワールド』(12月12日付)で、「旅順陥落の翌日から四日間、幼児を含む非戦闘員などを日本軍が虐殺した」と報じられたのである。虐殺の有無と犠牲者数について諸説があるものの、実際に従軍して直接見聞した有賀長雄は、民間人の巻き添えがあったことを示唆した。現在この事件は、旅順虐殺事件(英名:the Port Arthur Massacre)として知られている。なお同事件は、日本の外交上、深刻な事態を招きかねなかった。条約改正交渉中のアメリカでは、一連の報道によって一時、上院で条約改正を時期尚早との声が大きくなり、日本の重要な外交懸案が危殆に瀕した。このため、『ニューヨーク・ワールド』紙上で陸奥外相が弁明するような事態に陥った。しかし翌年2月、上院で日米新条約が批准された。
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