戦闘結果と戦闘後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/13 15:02 UTC 版)
ソ連軍は大きな損害を受けながら、日本軍の武装解除にたどりついた。『戦史叢書』によれば、『イズヴェスチヤ』紙は「占守島の戦いは、満洲、朝鮮における戦闘より、はるかに損害は甚大であった。八月十九日はソ連人民の悲しみの日である」と述べている、という[疑問点 – ノート]。また、ソ連側司令官[誰?]は後に「甚大な犠牲に見合わない、全く無駄な作戦だった。」と回顧録を残している。[要出典]両軍の損害は、ソ連側の数値によれば、日本軍の死傷者1000名、ソ連軍の死傷者1567名である。日本軍は武装解除後分散されたため、死傷者の正確な数をつかめなかった。ただし、日本軍人による推定値として、日本軍の死傷者は600名程度、ソ連軍の死傷者は3000名程度との数値もある。9月半ばまで両軍の戦死体は放置されたままであった。 日本軍の被害が少なかった理由はいくつかある。 ソ連軍が上陸できる砂浜が狭い竹田浜しかなく、上陸地点が予想され、効果的に攻撃する事ができた。 天候不良のため、ソ連軍は航空兵力による効果的な援護ができなかった。 上陸前の強力な艦砲射撃や爆撃がなく、陣地の破壊が充分ではなかった。 北方方面はほとんど戦場にならなかったため、日本軍の食料・弾薬があり、1日の戦闘には十分であった。 占守島と幌筵島の日本軍を武装解除したソ連軍は、北部北千島の残部にデニーソフ海軍少佐指揮下の第一偵察部隊を派遣し、27日までに捨子古丹島までの日本軍を武装解除した。日本軍の抵抗はなかった。また、南部北千島の松輪島から新知島には、ウォローノフ大佐指揮下の第二偵察部隊を派遣した。ここでも日本軍の抵抗はなく、武装解除は順調に進んだ。このため、27日にウルップ島日本軍の武装解除の任務が新たに加えられ、31日までに任務を完了した。なお、択捉島以南の南千島の武装解除は、樺太を占領した部隊の任務だった。 武装解除され捕虜となった日本兵は、しばらくの間、兵舎の整備、越冬準備の薪の収集作業に使役されていたが、10月中旬に目的地も告げられぬままソ連船に乗船させられシベリアへ抑留された。
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