戦闘継続
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1945年3月、大損害を被ってポメラニア戦線から撤退した「シャルルマーニュ」師団の生存者は、陸路もしくは海路でドイツ北部地域を目指し、アンクラム(Anklam)北西に位置するヤルゲリン(Jargelin)を集結地点とした。その後、生存者が多少集まった「シャルルマーニュ」師団は3月24日にノイシュトレーリッツ(Neustrelitz)に移動し、師団司令部をベルリン北方のカルピン(Carpin)に設置した上で再編制に着手した。 4月初旬、再編制後の「シャルルマーニュ」師団(連隊)の兵力は約1,000名に回復したが、親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーとフランスSS部隊最高査察官兼「シャルルマーニュ」師団長グスタフ・クルケンベルクSS少将は、これ以上の戦闘継続を希望しない将兵を戦闘任務から解放した上で、師団(連隊)に残った真の意味での義勇兵だけで構成される新たな「シャルルマーニュ」の編制を決定した。 この時、ピエール・ロスタン武装上級曹長は戦闘継続を希望した他のフランス人義勇兵たちと共に「シャルルマーニュ」の戦闘部隊に残り、彼らは改めて第三帝国総統アドルフ・ヒトラーへの忠誠・敢闘を宣誓した。歴戦のフランス人義勇兵の1人であるロスタンにとって、これがアドルフ・ヒトラーに対する3度目の宣誓となった。ナチズム(国家社会主義)信奉者ではないロスタンが武装親衛隊に残って戦闘継続を希望した理由は、「あらゆる文明社会の敵」である共産主義と戦うという彼の本能的な反共主義に由来する強固な意志、ただそれだけであった。 その後、ロスタンは再編制後の「シャルルマーニュ」師団(連隊)における第58SS大隊(SS-Bataillon 58)第6中隊の指揮を委ねられた。 「シャルルマーニュ」師団(連隊)第58SS大隊(SS-Bataillon 58)(1945年3月25日 - 4月23日) 大隊長 ハンス・ローベルト・ヤウスSS大尉(SS-Hstuf. Hans Robert Jauß)(ドイツ人) 第5中隊 ピエール・オーモン武装連隊付士官候補生(W-StdJu. Pierre Aumon) 第6中隊 ピエール・ロスタン武装上級曹長(W-Hscha. Pierre Rostaing) 第7中隊 ジャン・ファタン武装中尉(W-Ostuf. Jean Fatin) 第8中隊 ジャック・サライレSS義勇少尉(SS-Frw. Ustuf. Jacques Sarrailhé) しかし、当時の第58SS大隊長を務めていた若いドイツ人将校ハンス・ローベルト・ヤウスSS大尉(ドイツ十字章金章受章者)は、時が経つにつれて戦争への幻滅の度合いを増していった。彼は「シャルルマーニュ」師団(連隊)内における反グスタフ・クルケンベルクSS少将グループの筆頭となり、クルケンベルクと目を合わせる度に口論を繰り広げた。 戦闘継続を希望した他の将兵の士気に悪影響を及ぼしかねないヤウスの扱いに窮したクルケンベルクは、親衛隊作戦本部に対して「ヤウスSS大尉は士官候補生の監査に最適の人物であるが、彼の居場所はフランス人義勇兵たちの隣ではない」と報告し、ヤウスを更迭した。その後、ヤウスの後任としてクレープシュSS大尉(SS-Hstuf. Kroepsch)が第58SS大隊指揮官に就任した。
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戦闘継続
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「2014年ウクライナでの親ロシア派騒乱」の記事における「戦闘継続」の解説
詳細は「ドンバス戦争」を参照 戦闘は6月中も続いたが、ポロシェンコ大統領による15項目の和平計画の一環で、頻繁に破られていた停戦が6月20日から30日まで続いた。停戦破棄後の政府による攻撃は分離主義者に大きな損失をもたらし、4月から彼らの支配下にあった多くの都市(スラビャンスク、ドルジュキーウカ、クラマトルスクなど)があるドネツィク州北部からの撤退を余儀なくさせた。激しい戦闘は9月上旬にミンスク議定書の署名があるまで数ヶ月にわたって続き、そこで停戦が確立した。
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