「デリクス」戦闘団結成とは? わかりやすく解説

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「デリクス」戦闘団結成

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/17 17:38 UTC 版)

第28SS義勇擲弾兵師団」の記事における「「デリクス」戦闘団結成」の解説

1945年3月1日ソビエト赤軍はシュタルガルト近郊ドイツ軍対す包囲攻撃実行した。これに応じて「ヴァロニェン」師団はシュタルガルト周辺地域転戦したが、やがてシュテッティン近辺オーデル川まで後退したポメラニア戦線到着して以来、「ヴァロニェン」師団は7名の将校を含む125名の戦死者200名以上の重傷者を出すという損害被っていた。師団所有する9門の重対戦車砲12門の対空砲撃破もしくは遺棄されその他の重兵器大部分失われ歩兵用の軽火器戦闘中遺棄されていた。補給段列は数両にまで減りワロン人義勇兵夜間後退行動中に互い連絡失い周辺一帯分散していた。今や1個戦闘団規模縮小した「ヴァロニェン」師団休養再編制のため、オーデル川西部送られた。 この時、師団長レオン・デグレルSS中佐溌剌とした演説なされたものの、生存者多く意気消沈しこれ以上戦闘無意味だという雰囲気醸成していた。しかしそれでもなお将兵中核的存在の者たちは戦闘継続用意をしていた。 3月12日、「ヴァロニェン」師団第69SS擲弾兵連隊第I大隊長アンリ・デリクスSS大尉は、負傷回復復帰後の演説次のように締めくくった。「・・・ガッツのある者は一歩前へ!」そして、23名の将校625名の下士官・兵整列した。 こうして、戦闘継続希望したワロン人義勇兵たちは新たに「デリクス」戦闘団(Kampfgruppe Derriks)を結成し、かき集めた多数小銃機関銃StG44(突撃銃)パンツァーファウスト迫撃砲装備した。 「デリクス」戦闘団(Kampfgruppe Derriks)(1945年3月中旬戦闘団指揮官 アンリ・デリクスSS大尉(SS-Hstuf. Henri Derriks) 第1中隊 アンドレ・レジボSS少尉(SS-Ustuf. André Régibeau) 第2中隊 マチュー・ド・コスターSS少尉(SS-Ustuf. Mathieu De Coster) 第3中隊 レオン・ジリスSS中尉(SS-Ostuf. Léon Gillis) 第4(重兵器中隊 アンリ・ティッセンSS中尉(SS-Ostuf. Henri Thyssen兵力:648名(将校23名、下士官・兵625名)ライフル400軽機関銃60重機関銃仕様MG42機関銃:4挺StG44(突撃銃)1508cm迫撃砲16門 この時、これ以上戦闘継続希望しなかった者たちは第69SS擲弾兵連隊長ジュール・マチューSS大尉率いられてベルクホルツ(Bergholz)に後退し1945年4月末までそこに留まった。また、デグレルは師団指揮所をシュテッティンから30キロメートル西にあるブリュッソー(Brüssow)の古城(フォン・マッケンゼン(August von Mackensen)家の領地)に設置したが、それ以降、デグレルが部下前に姿を見せ回数は非常に少なくなった。

※この「「デリクス」戦闘団結成」の解説は、「第28SS義勇擲弾兵師団」の解説の一部です。
「「デリクス」戦闘団結成」を含む「第28SS義勇擲弾兵師団」の記事については、「第28SS義勇擲弾兵師団」の概要を参照ください。

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