「デリクス」戦闘団結成
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「第28SS義勇擲弾兵師団」の記事における「「デリクス」戦闘団結成」の解説
1945年3月1日、ソビエト赤軍はシュタルガルト近郊のドイツ軍に対する包囲攻撃を実行した。これに応じて「ヴァロニェン」師団はシュタルガルト周辺の地域を転戦したが、やがてシュテッティン近辺のオーデル川まで後退した。 ポメラニア戦線に到着して以来、「ヴァロニェン」師団は7名の将校を含む125名の戦死者、200名以上の重傷者を出すという損害を被っていた。師団が所有する9門の重対戦車砲と12門の対空砲は撃破もしくは遺棄され、その他の重兵器の大部分も失われ、歩兵用の軽火器も戦闘中に遺棄されていた。補給段列は数両にまで減り、ワロン人義勇兵は夜間後退行動中に互いの連絡を失い、周辺一帯に分散していた。今や1個戦闘団規模に縮小した「ヴァロニェン」師団は休養と再編制のため、オーデル川西部に送られた。 この時、師団長レオン・デグレルSS中佐の溌剌とした演説がなされたものの、生存者の多くは意気消沈し、これ以上の戦闘は無意味だという雰囲気を醸成していた。しかしそれでもなお、将兵の中核的存在の者たちは戦闘継続の用意をしていた。 3月12日、「ヴァロニェン」師団第69SS擲弾兵連隊第I大隊長アンリ・デリクスSS大尉は、負傷回復・復帰後の演説を次のように締めくくった。「・・・ガッツのある者は一歩前へ!」そして、23名の将校と625名の下士官・兵が整列した。 こうして、戦闘継続を希望したワロン人義勇兵たちは新たに「デリクス」戦闘団(Kampfgruppe Derriks)を結成し、かき集めた多数の小銃、機関銃、StG44(突撃銃)、パンツァーファウスト、迫撃砲を装備した。 「デリクス」戦闘団(Kampfgruppe Derriks)(1945年3月中旬) 戦闘団指揮官 アンリ・デリクスSS大尉(SS-Hstuf. Henri Derriks) 第1中隊 アンドレ・レジボSS少尉(SS-Ustuf. André Régibeau) 第2中隊 マチュー・ド・コスターSS少尉(SS-Ustuf. Mathieu De Coster) 第3中隊 レオン・ジリスSS中尉(SS-Ostuf. Léon Gillis) 第4(重兵器)中隊 アンリ・ティッセンSS中尉(SS-Ostuf. Henri Thyssen) 兵力:648名(将校23名、下士官・兵625名)ライフル:400挺軽機関銃:60挺重機関銃仕様MG42機関銃:4挺StG44(突撃銃):150挺8cm迫撃砲:16門 この時、これ以上の戦闘継続を希望しなかった者たちは第69SS擲弾兵連隊長ジュール・マチューSS大尉に率いられてベルクホルツ(Bergholz)に後退し、1945年4月末までそこに留まった。また、デグレルは師団指揮所をシュテッティンから30キロメートル西にあるブリュッソー(Brüssow)の古城(フォン・マッケンゼン(August von Mackensen)家の領地)に設置したが、それ以降、デグレルが部下の前に姿を見せる回数は非常に少なくなった。
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