「デュアルコントラクト」での建設
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/06 10:13 UTC 版)
「IRTフラッシング線」の記事における「「デュアルコントラクト」での建設」の解説
クイーンズボロ・プラザ駅では、BMTの60丁目トンネルからの路線とフラッシング線が出合い、またクイーンズボロ橋を渡る高架のIRT2番街線も合流していた。この駅から東側では、ニューヨーク市と結んだ「デュアルコントラクト(英語版)」(二重契約、IRTとBMTの双方がニューヨーク市と結んだ都市鉄道の建設・運営に関する契約)の一環としてフラッシング線とアストリア線が建設された。これらの路線は公式にはIRTの路線であり、BMTが取消不可能で平等な運行権を持っていた。BMTの車両は幅が広く、各プラットホームはIRT用に建設されていたため、通常のBMTの車両はクイーンズボロ・プラザ駅までの運行とされ、マンハッタン高架鉄道の車両を使ってアストリア-ディトマース・ブールバード駅およびフラッシング-メイン・ストリート駅まで交互に運行するシャトル列車に乗り換えとなっていた。IRT側の列車は、クイーンズボロ線およびクイーンズボロ橋からアストリア線およびフラッシング線に直通していた。ただしフラッシング線は、フラッシングまで完成するまではコロナ線あるいはウッドサイド・アンド・コロナ線と呼ばれていた。 クイーンズボロ・プラザ駅から103丁目-コロナ・プラザ駅までの区間は1917年4月21日に開通した。BMT側のフラッシング線およびアストリア線でのシャトル列車は、1923年4月8日に運行を開始した。ここより東側では、出典によって各区間の開通日が異なっている。ニューヨーク・タイムズの1927年5月8日の記事では、現在のメッツ-ウィレッツ・ポイント駅までの区間が5月7日に運行を開始したとし、構造物の沈下の問題で遅れが出たことについて言及している。5月13日から5月15日までの一連の記事では、ウィレッツ・ポイント駅までの開通に伴う5月14日の祝賀行事について触れている。最終的に1928年1月22日の記事では、1月21日まで列車の運行は103丁目/コロナ・プラザ駅までであったとし、延長工事は1年以上前に完成していたものの構造上の問題により強化する必要があったと触れている。 フラッシング-メイン・ストリート駅までは1928年1月2日に開通した。しかし、フラッシング-メイン・ストリート駅は当初から路線の終点として意図されていたわけではなかった。1913年6月の公共事業委員会では、フラッシングより先までの路線の延長について活発に検討しており、後に大規模な地下鉄網拡大計画の一環として計画されたものの、こうした延長計画が実現することはなかった。当時は、フラッシング/メイン・ストリート駅より先まで線路が伸びて列車の留置線につながっていた。 西側への延長も行われ、一部は42丁目シャトルの下に建設された。 グランド・セントラル-42丁目駅から5番街駅 - 1926年3月23日開通。 タイムズ・スクエア駅までの西側への延長 - 1927年3月14日開通。 1939年のニューヨーク万国博覧会に向けて、ウィレッツ・ポイント・ブールバード駅(メッツ-ウィレッツ・ポイント駅)は当初の位置より西側に移転し、123丁目の中央に建て替えられた。旧駅の残骸の一部は今でも見ることができる。鉄製の構造物が旧駅の外側のプラットホームの位置を示しており、また現在の駅の東側に改札口の名残がある。当初のウィレッツ・ポイント・ブールバード駅はフラッシング線の中では小さな駅で、2か所しか階段がなくプラットホームの屋根も短いものであったが、この建て替えにより今日のような大きな駅となった。2回の万国博覧会(1939年、1964年)で使われた階段は現在でも使われており、テニスの全米オープンなどの特別なイベントに際して供用される。万国博覧会へのフラッシング線での急行運転は1939年4月24日に開始された。中央の急行線が営業運転に用いられたのはこの時が最初で、万国博覧会以前には急行線は回送や建設作業中の迂回運行にのみ用いられていた。 現在も歴史的にも、フラッシング線を運行するIRTの列車は7系統という番号を割り当てられていたが、1948年にR12型車両(英語版)が導入されるまで、車両には表示されていなかった。BMTの列車に対しては9系統と割り当てられていたが、地図に示されるだけで列車には表示されていなかった。
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