「デルカッセ体制」の構築
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「テオフィル・デルカッセ」の記事における「「デルカッセ体制」の構築」の解説
外相としてのデルカッセは一貫して反ドイツ的な政策をとる一方、その他のヨーロッパ列強、特にイギリス・ロシアに対しては宥和的、あるいは協調的な方針を採用した。 就任当時、アフリカ・スーダンのファショダで、イギリスとの軍事衝突が懸念されていた(ファショダ事件)が、デルカッセは対英宥和策をとって両国関係の改善に努めた。ロシアに対しては、露仏同盟の強化を図って1899年8月と1901年4月の2度にわたり、サンクトペテルブルクを訪問した。また、水面下でイタリアと交渉し、1902年に両国間で密約(仏伊協定)を締結して三国同盟に揺さぶりをかけた。1903年7月には大統領ルーベ (fr:Émile Loubet) と共にロンドンを訪問し、イギリスとの友好関係の構築を図った。翌1904年に締結された英仏協商は、彼の成し遂げた外交的成功の1つで、これによりイギリスのエジプトにおける優先権を認めた代償として、フランスのモロッコにおける優先権を確認させた。また、英露の緊張緩和を図り、両者の接近を進めさせた(この努力が、1907年の英露協商を導く要因ともなった)。 以上の努力により、デルカッセはビスマルク体制と呼ばれるドイツ中心のフランス包囲網を解体し、逆に対ドイツ包囲網を形成していった。彼とその継承者によって形成された対独包囲網は、フランスの国際政治史家ルネ・ジロー(フランス語版)により、「デルカッセ体制」と表現されている。
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