新知島
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新知島 | |
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所在地 | 帰属未定 (実効支配: ![]() サハリン州クリル管区) |
座標 | 北緯46度58分00秒 東経152度2分00秒 / 北緯46.96667度 東経152.03333度 |
面積 | 227.6[注釈 1] km² |
最高標高 | 1,540 m |
最高峰 | 新知岳 |
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新知島(しむしるとう、しんしるとう)は千島列島の中部にある火山島。ロシア名はシムシル島(о.Симушир)、英語表記はSimushir。
島の名前の由来は、アイヌ語の「シ・モシリ(大きい・島→大きい島)」から。
地理
長さは 59 kmで、幅はおよそ 13 kmほど。面積は 227.6 km2。細長い島は個性的な火山の列で構成されている。北東部には幅 7.5 kmの半分海没したカルデラ湖の武魯頓湾(ぶろとんわん[4]、英: Brouton Bay[注釈 2])がある。北側は新知海峡と通じているが、深さは2.5 m程度しかなく、かつて掘削が提唱されたが一度も行われなかった。反対に、湾の中の深さは最大240 mに達する。なお、本島は冬になると北西の風が頻繁に吹くため、武魯頓湾は船舶にとって絶好の避難所になる。

かつて、ソ連海軍の潜水艦艦隊の秘密基地があった。1987年に建設されたものの、1994年に放棄されている。その潜水艦基地の跡地は今でも衛星写真ではっきり見ることができる[5]。
北から順に次の山が並ぶ。
- 三日月山(みかづきやま、海抜 676 m)
- 島の北部、武魯頓湾の南寄りに位置する山。
- 新知富士(しむしるふじ、海抜 1,360 m[6]、ロシア名:プレヴォ山 Прево、英名: Prevo)
- 島の中部に位置し、1825年から25年前後に一度噴火している最も活発な火山。「富士」を冠してあるだけあり、どの位置から見ても美しく見えるのが特徴。
- 緑湖カルデラ(みどりこかるでら、海抜 624 m[7]、ロシア名:ザヴァリツキ・カルデラ Zavaritzki)
- 島の中南部に位置する三重カルデラで、中央に濃青緑色の水をたたえる緑湖(カルデラ湖)がある。この湖は東西約2 km、南北約3 kmである。南側に温水が湧いているため、冬でも全面が凍結しない。また、かつて北側には陸続きの小島があったとみられる。北半球の年間平均気温は、1831年に起こった火山の大噴火によって約1度低下したと分かってはいたが、2006年発表の論文[8]によると、その火山はこの新知富士であり[9]、気温低下の原因は大量に放出された二酸化硫黄が成層圏に滞留したためと推定された[10][11]。
- 島の西南部に位置する最高峰。1881年、1914年に大噴火があったとされる。
- 焼山(やけやま、海抜 891 m[13]、ロシア名:ゴリアシャイア・ソプカ Goriaschaia Sopka)
- 島の西南部、新知岳の北西に位置する。複数の火山が合わさった成層火山である。
島のほとんどは針葉樹林に覆われている。国境警備隊が駐屯したが建物は放棄され、現在は無人島である。
歴史
- 1633年(寛政10年)、松前蝦夷地のニシン漁の盛衰について松前藩領の古老たちに取材し、自らの見聞を交えた『松前蝦夷地海邉盛衰上書』が上梓される[注釈 3]
- 1644年(正保元年)、「正保御国絵図」が作成された際、幕命により松前藩が提出した自藩領地図には、「クナシリ」「エトロホ」「ウルフ」など39の島々が描かれていた。
- 1715年(正徳5年)、松前藩主は幕府に対し、「北海道本島、樺太、千島列島、勘察加」は松前藩領と報告。
- 1771年、ハンガリー出身の冒険家モーリツ・ベニョヴスキーが、5月29日から6月9日の間滞在。
- 1854年、日米和親条約に基づいて箱館を開港する。
- 1855年(安政元年)2月、松前藩領を除く蝦夷地全域を幕府直轄地とする(蝦夷地第2次幕領期[15])。追って日露通好条約によりロシア領となる。
- 1875年(明治8年)、樺太・千島交換条約により日本領になる。本島を中心に北海道 (令制)千島国新知郡(現在の北海道根室振興局管内)が制定される。『根室県史草稿』[注釈 4]によるとロシアからの引継時の住民は59名、『明治9年千島三郡取調書』(1876年)[17]ではアレウト人が57名居住とされる。
- 1877年(明治10年)、樺太・千島交換条約の条約附録により、島民はロシア国籍を選択して退去、実質的に無人島になる。
- 1920年、6月に武魯頓湾で地震発生[18]。
- 1923年には松輪島が噴火[18]。
- 1931年(昭和6年)- 北太平洋航路調査を行っていたチャールズ・リンドバーグ夫妻の機体が新知島#計吐夷島の南東海面に不時着[19]。新知島に常駐していた農林省の船が救援に向かい、武魯頓湾に移動させて修理が行われた[20]。
- 1945年(昭和20年)、8月、ソビエト連合軍が上陸し占領する。しかし、この島は日本からアメリカ東海岸への大圏航空路上に位置しているため、米国はソ連に対し、米軍基地設置を認めるよう要求。しかしスターリンは拒否。日本が降伏した9月2日に出された一般命令第1号により、ソ連占領地とされた。
- 1946年(昭和21年)、GHQ指令により、日本の施政権が正式に停止される。直後に、ソ連が領有を宣言する。
- 1952年(昭和27年)、サンフランシスコ平和条約を結んだ日本は領有権を放棄する[21]が、ソ連は調印しなかった。以後、日本は千島列島の帰属は未確定と主張する[22][23][24][25]。
- 1991年(平成3年)、ソ連が崩壊した後に成立したロシア連邦が実効支配を継承。
- 2002年(平成14年)、ロシアが核燃料の最終処分場を新知島に設ける構想が浮上するが、環境や費用の面から頓挫に終わる。
現在(2024年時点)はロシア連邦の実効支配下にあるが、日本政府は国際法上は帰属未定地であると主張し、解決に向けた取り組みがある[28]。
その他
1924年から1926年に礼文島に移植したベニギツネがエキノコックス症感染源になった[29]。
参考文献
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- 『近代北千島列島誌』 上巻、2001年、29-31頁。[出典無効]
- 昭和ニュース事典編纂委員会 編「千島の無人島沖合に不時着『大阪毎日新聞』」『昭和ニュース事典』 第3巻《昭和6年-昭和7年 本編》、毎日コミュニケーションズ、1994年、759頁。
- 『東京朝日新聞』昭和6年8月22日(『昭和ニュース事典第3巻 昭和6年-昭和7年』本編p760
脚注
注釈
出典
- ^ 『北千島諸港平面圖』[出版者不明]。CRID 1130000794384561536。地図資料(地図)、折りたたみ29 cm(58x90 cm)。別題は『幌莚海峡一般圖』、『北千島諸港平面図』。
- 収録した地名は武魯頓湾の他、幌莚島、加熊別湾、擂鉢湾、武蔵湾、乙前湾、鯨湾、幌莚海峡、村上湾、片岡湾、柏原湾、南浦、床丹湾。
- ^ 陸地測量部『武魯頓灣』大日本帝國陸地測量部、1919年。 CRID 1130300746064738750。縮尺は5万分の1。著作権所有印刷兼発行者は大日本帝國陸地測量部、測図は1916年(大正5年)。表紙共3面。
- ^ 神尾秀二「大正九年六月新知島武魯頓灣に於ける地震と大正十二年一月松輪島に於ける噴火に就いて」『地質学雑誌』第38巻第458号、1931年、589-596頁、 CRID 1390001206239036288、doi:10.5575/geosoc.38.458_589、 ISSN 0016-7630。
- ^ 武魯頓湾の記載は『北千島諸港平面圖』[1]、5万分の1地図『武魯頓灣』[2]、1920年と1923年の地震記録『大正9年6月新知島武魯頓灣に於ける地震と大正12年1月松輪島に於ける噴火に就いて』[3]に見られる。
- ^ “The Russian Kuril Islands Expedition” (英語). The Ocean Adventure. 2009年7月22日閲覧。
- ^ “Global Volcanism Program” (英語). 米国立自然史博物館. 2009年7月22日閲覧。
- ^ “Global Volcanism Program” (英語). 米国立自然史博物館. 2009年7月22日閲覧。
- ^ S. G. Rotolo; F. Castorina; D. Cellura; M. Pompilio (2006). “Petrology and geochemistry of submarine volcanism in the Sicily Channel Rift”. J. Geol. 114: 355-365. doi:10.1086/501223.
- ^ N. Calanchi; P. Colantoni; P. L. Rossi; M. Saitta,; G. Serri (1989). “The strait of Sicily continental rift systems: Physiography and petrochemistry of the submarine volcanic centres”. Mar. Geol. 87: 55-83. doi:10.1016/0025-3227(89)90145-X.
- ^ Hutchison, William (2024年8月16日). “The 1831 CE mystery eruption identified as Zavaritskii caldera, Simushir Island (Kurils) [1831年発生の謎の噴火は、シムシル島(千島列島)のザヴァリツキ・カルデラで発生したと特定]” (英語). The National Academy of Sciences. doi:10.1073/pnas.2416699122. 2025年1月8日閲覧。
- ^ “1831年に地球を寒冷化させた「犯人」を特定する”. vietnam.vn. DEPARTMENT OF GRASSROOT INFORMATION AND FOREIGN INFORMATION. MINISTRY OF CULTURE, SPORTS AND TOURISM. Viet Nam. [文化・スポーツ・観光省、基礎情報・対外情報局] (2025年1月7日). 2025年6月6日閲覧。
- ^ “Global Volcanism Program” (英語). 2009年7月22日閲覧。
- ^ “Global Volcanism Program” (英語). 米国立自然史博物館. 2009年7月22日閲覧。
- ^ 中村 小市郎『松前蝦夷地海邉盛衰上書 [写]』北海道史編纂賭、1906年3月。
- ^ 平井 松午 (2012). “GISを用いた幕末期における蝦夷地陣屋の3D復原”. 日本地理学会発表要旨集 (日本地理学会) 2012a (100060). CRID 1390282680672959616. doi:10.14866/ajg.2012a.0_100060.
- ^ 北海道立文書館(編)『北海道立文書館研究紀要』第5号、NDLJP:4424277。掲載誌別題『Bulletin of the Archives of Hokkaido』
- ^ 長谷部辰連「時任為基 : 千島三郡取調書 千島着手見込書」、三一書房、1969年。
- ^ a b 神尾 1931, pp. 589–596
- ^ 『昭和ニュース事典』(第3巻) 1994, p. 759
- ^ 『昭和ニュース事典』(第3巻) 1994, p. 760, 機体を引航して武魯頓湾で修理『東京朝日新聞』
- ^ ストリームグラフ: “(補論)国際法から見た北方領土問題”. www.cas.go.jp. 総合的論点 > コラム:尖閣諸島、竹島、国際裁判. 尖閣諸島研究・解説サイト. 2025年6月4日閲覧。
- ^ “国際的取決め 北方対策本部 - 内閣府”. 内閣府ホームページ. 2025年6月5日閲覧。
- ^ “北方領土問題の経緯(領土問題の発生まで)”. トップページ > 外交政策 > その他の分野 > 日本の領土をめぐる情勢 > 北方領土 > 北方領土問題の概要. 外務省. 2025年6月5日閲覧。
- ^ “国別の色分け地図で、樺太の南半分と千島列島に着色していない理由は何ですか。|editor= 帝国書院”. www.teikokushoin.co.jp. 2025年6月5日閲覧。
- ^ “北方領土問題の背景と経緯について”. www.ninomiyashoten.co.jp. 山川出版社. 2025年6月5日閲覧。
- ^ “日ソ・日露間の平和条約締結交渉”. 外交政策 > その他の分野 > 日本の領土をめぐる情勢 > 北方領土 > 北方領土問題の概要. 外務省. 2025年6月5日閲覧。
- ^ “北方四島をめぐる日露協力の進展”. 外交政策 > その他の分野 > 日本の領土をめぐる情勢 > 北方領土 > 北方領土問題の概要. 外務省. 2025年6月5日閲覧。
- ^ 外務省サイト〈北方領土問題の概要〉より「日ソ・日露間の平和条約締結交渉」[26]、「北方四島をめぐる日露協力の進展」[27]。
- ^ “礼文島エキノコックス症の自然史”. 国立感染症研究所 感染症情報センター. 2009年7月22日閲覧。
関連項目
国立自然史博物館 (アメリカ) - 一連の火山の記録を保持する。
外部リンク
- シムシル島 : 火山博物館
- シムシル島(新知島)(アーカイブ版) : 財団法人資源・環境観測解析センタ―(ERSDAC:Earth Remote Sensing Data Analysis Center)
- 北の自然と野生(2007年11月10日放送分) : 北海道テレビ放送
- 新知島のページへのリンク