千島での報效義会
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この一連の事件のため、一行はそれまでの計画を完全に諦め、軍艦磐城に曳航されて、当初の予定では占守島に着いているはずの6月5日に函館へ入港した。ここで白瀬矗ら陸行組と合流すると、地元の富豪・平出喜三郎の好意でその持船に便乗させてもらい、6月17日択捉島の紗那に到着。ここから先への船便の当てがなかったこともあり、郡司は一旦ここに報效義会の本部を設立することにした。7月3日には、郡司の実父である幸田成延をはじめとした会員の家族も到着して、道中での遭難死者・脱会者を除いた報效義会のメンバーがほぼ千島に揃ったことになったが、あくまでも占守島が目的であった郡司にとって択捉島での生活は本意ではなかった。そのような中、7月20日、硫黄採掘のため捨子古丹島に向かうという泰洋丸という帆船が紗那に入港する。郡司が便乗を依頼したところ、泰洋丸船主・馬場禎四郎の返事は「捨子古丹島には硫黄採掘のため20日ほど滞在するからその間に占守島まで送っても良い、ただし全員は乗せられないので15人程度にしてほしい」というものであった。こうして、郡司は自分や白瀬、横川勇次、高橋伝五郎など18人の先遣隊を選抜し、泰洋丸に乗り込んだ。 7月31日、泰洋丸は捨子古丹島に到着する。しかし、ここで馬場は、占守島への回航を拒否し、帰還途中に新知島に寄るのはどうかという代案を出してきた。ここで馬場が当初の約束を反故にした理由についてははっきりしていないが、採掘に手一杯で泰洋丸を占守島へ回航させる人員が確保できないことや、千島が荒天気に入る時期であったため、占守島へ回航させる間に不慮の事故が起きるなどして硫黄を持ち帰れなくなることを恐れたのではないかと推測されている。便乗者である郡司としてはこれに抗議することもできず、また新知島のブロウトン湾の岩礁を爆破して同湾を天然の良港に改造しようという計画を建てていたこともあり、その提案を呑んだ。 また、泰洋丸のメンバーが硫黄採掘をしている最中に郡司は白瀬を連れて島内一周探検を実行しており、かつて千島アイヌが建てた家屋や橋梁が残っていることや、飲料水が豊富なことを発見した。このため、郡司は脚気にさえ気をつければ捨子古丹島での越年は可能だと判断し、先遣隊18人のうち高橋伝五郎など9人を残留させることにした。まずは占守島を全力で開拓することを目的にしていた郡司にとってこれは苦渋の選択であった(郡司はその著書『千島国占守島探険誌』の中でこの選択について「実ニ忍ビザル所アリ」と記している)が、占守島に渡るめどが立たない状態では次善の策としてこれを取らざるを得なかったのである。 捨子古丹島残留メンバーと別れた郡司・白瀬・横川ら残りの9人は泰洋丸に乗って新知島へ向かっていたが、その途中に偶然、八戸から函館まで郡司らを運んだ軍艦磐城と再会する。磐城は測量のため占守島へ向かうところであり、郡司は便乗させてもらうことを請願したところ、これを許可された。ただし、捨子古丹島に残留した9人については、任務の関係上捨子古丹島への寄港が無理であり、回収はできないとのことであった。 また、この時磐城には正教会のニコライ・カサートキンの弟子である和田平八という男が乗っていた。和田は、かつて占守島などに住んでいたが色丹島に強制移住させられたアイヌを再び北千島に帰還させるという運動を志しており(千島アイヌはロシア人宣教師の影響で正教会の信者が多かった)、そのために単身幌筵島での越冬生活を行なおうとしていたのである。この話を聞いた郡司らは、単身での越冬は危険だとして占守島での共同越冬を薦めたが、和田は決意固く、幌筵島で一人下船した。 そして8月31日、郡司は紆余曲折の末に占守島へ到着する。この時、特派員としての仕事が完了した横川勇次と、母親が大病を患っており帰京を希望していた島野という会員は島に残らず磐城と共に帰還することになったため、同島での越年部隊は全部で7人となった。
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