千島アイヌと日本正教会とは? わかりやすく解説

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千島アイヌと日本正教会

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 04:22 UTC 版)

色丹島」の記事における「千島アイヌと日本正教会」の解説

千島居住時代ロシア正教会から派遣され宣教師による伝道でハリスチャニン(正教信者となっていた千島アイヌ人々ために、日本ハリストス正教会司祭伝教者伝教師)を送った明治時代日本ハリストス正教会伝教者だった斎藤東吉が色丹千島アイヌ信者から聞いた話によると、1885年明治18年)、日本正教会神品初め色丹島訪問した時、最初に上陸した根室教会管轄司祭小松神父を、根室学校通っていて教会訪れたことのある子ども正教神父であると大人信者たちに教えたが、小松師が和服姿であったために大人たちは正教司祭とは信じられ和人回し者であろう怪しんだという。 しかし、後から陸に上がった沢辺太郎伝教者沢辺琢磨息子、後に司祭に叙聖される)がロシア語で、根室正教会小松師による巡視であることを伝え、また小松師がニコライ主教からの証明書を提示する至って、ようやく彼らは正教会神品来訪であることを理解し歓喜の声を上げて降福を受け、また機密与ったという。これが色丹島の聖三者教会始まりとなった色丹島より戻った神品らは直ち千島アイヌ信者窮状教団本部伝え、これを受けたニコライ主教全国信者義捐呼びかけ送られてきた金品色丹信者らに送ったその後1893年明治26年)、羅処和島生まれ千島アイヌ首長ヤコフ・ストロゾフは自らの手新し教会堂を建て、信者たちは篤実信仰生活を続けた。 現在、当然のことながら往時の聖三者教会消滅し、また司祭送った根室正教会衰退したため、根室居た司祭1910年明治43年)より釧路移転してしまったが、聖三者教会納められていたイコン聖像)の一部が中標津郊外の上武佐ハリストス正教会受け継がれ千島アイヌ人々守り続けた正教信仰灯火を今に伝えている。

※この「千島アイヌと日本正教会」の解説は、「色丹島」の解説の一部です。
「千島アイヌと日本正教会」を含む「色丹島」の記事については、「色丹島」の概要を参照ください。

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