両軍の態勢
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ヴェルダンには環状分派堡と呼ばれる形式の要塞があり、その要塞の中核となる都市や町の周囲に多数の堡塁を巡らせていた。ヴェルダン築城地帯、ことにミューズ川右岸地区の正面はその幅約60kmで、これを守備するフランス軍は始めわずかに3個師団であった。また左岸に2個師団、東向きの要塞の南に3個師団が存在していた。ドイツ軍の攻撃前日には漸次その数を増し、2個軍団が増強された。 攻撃を担当したドイツ皇太子ヴィルヘルム中将の第5軍は当初11個師団であり、しかも第一線には6個師団しか配備されなかった。しかしその分砲兵は多数配属された。自軍の少ない損害で敵軍に大きな損害を負わせようと企図したからである。
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両軍の態勢
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攻撃を担当したドイツ第8軍は、自軍の正面から第19予備師団、第203猟兵師団、第202猟兵師団の3個師団を抽出し、これを突破正面に増援として送った。 東方大軍司令官は主としてガリツィア戦場から第4軍団、第1後備軍団、第23予備軍団の3個軍団司令部を始め、第1近衛猟兵師団、第2近衛猟兵師団、近衛補充師団、第20猟兵師団、第42猟兵師団、第14バイエルン猟兵師団、第75予備師団、第77予備師団並びに必要十分な砲工兵部隊を本作戦のため第8軍に増援した。その他第8軍は第1騎兵師団のほか1個騎兵旅団を増加された。 ドイツ軍サイドの塹壕背後の森には、重迫撃砲100門、中迫撃砲130門、軽迫撃砲320門が配備され、A~Dの砲兵群として編成された。これらの指揮官はゲオルク・ブルフミュラー大佐に直接報告する。ブルフミュラー大佐は突破正面の全砲兵を指揮していた。 1917年8月頃、独第8軍に対するロシア軍はパルスキーの指揮する第12軍であった。その陣容は第6シベリア軍団(歩兵4個師団と1個旅団)、第2シベリア軍団(歩兵4個師団と1個旅団及び騎兵1個師団)、第13後備軍団(歩兵3個師団)である。第12軍をもってリガ橋頭を、第21軍団をもってイックスキュール方面ドビナ河の北岸を占領していた。ロシア第12軍はこのほかに軍予備として歩兵2個師団、騎兵1個師団を有し、別に1個師団を迅速に招致できる情況にあった。 ロシア軍の陣地線は大体3帯に分けられる。第1陣地帯はフリードリヒシュタットからドビナ河右岸を経てリガ西南方の橋頭陣地の間において3線に構築されていた。第2陣地帯は第1陣地帯の後方2~3kmの地線に2線に構築。第3陣地帯は小エーゲル河北岸の線に設けられた。
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両軍の態勢
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パレスチナにおけるイギリス軍の上級司令部としては、英エジプト遠征軍が存在していた。メギッド戦時の遠征軍は大きく分けて第20軍団、第21軍団、砂漠乗馬軍団、チャーター隊、英空軍パレスチナ旅団から成っていた。第20軍団と第21軍団は歩兵主体で、砂漠乗馬軍団は乗馬兵中心である。チャーター隊はオーストラリア・ニュージーランド乗馬師団を基幹として、それに歩兵部隊が付与された部隊である。ドイツ軍の春季大攻勢に伴う転出と補充により、遠征軍ではインド兵の比率が高くなっていた。総計歩兵5万6千、騎兵1万千、火砲552門である。 一方のオスマン帝国ユルドゥルム軍集団は大体に分けて第4軍 (小ジェマル・パシャ)、第7軍 (ムスタファ・ケマル・パシャ)、第8軍 (ジェヴァト・パシャ)から成っていた。第8軍の隷下にはドイツ・アジア軍団も入っていた。1918年8月時点での歩兵戦力は40598名(小銃19819挺、軽機関銃273挺、重機関銃696挺)だった。アレンビーはオスマン軍の戦力を歩兵3万2千、騎兵3千、火砲370門と推定している。部隊配置は、軍集団司令部がナザレ、海岸部の第8軍はテル・カルム、内陸部第7軍はナーブルス、内陸部左翼の第4軍はエス・サルトに司令部を置いていた。当時ユルドゥルム軍集団は物資不足と兵力不足に悩まされていた。
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