両軍の機動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/13 15:56 UTC 版)
同日、クッテンベルクへ向かう途中の大王はポードホーツァンの丘から、南のヴィリモウにオーストリア軍数千の軍勢の姿を認めた。大王はこの部隊を、モルダウ方面からやって来て、南東にいるであろうカール公子軍と合流を図るロプコヴィッツの部隊であろうと考え、若デッサウにヴィンターフェルトを送り夜明けとともにチャスラウへ向かえと命じた。大王は行軍を中止して防御態勢を取らせ、奇襲を警戒して兵は上着を着、銃を持ったまま眠りについた。 このオーストリア軍は、西からではなく東からやって来た、カール公子軍の前衛であった。カール公子軍は大王の認識よりも早く西進しており、モルヴィッツの戦いのときとは違って十分に編成された軍を率いるカール公子は戦力に自信を持っていた。カール公子はヴィリモウからプロイセン軍を見て攻撃を望み、翌朝早くにより北のローノウに行軍することにした。カール公子はすぐ近くに若デッサウのより有力な軍がいることを認識していなかった。 5月16日、ヴィリモウからオーストリア軍が消えたと報告を受けた大王は、ロプコヴィッツはこちらを回避して東へ去ったと考え、シュメッタウを派遣して若デッサウに、チャスラウに着いたら北西に陣取り、クッテンベルクから大王軍と連絡線を接続してエルベ経由の補給を受けつつオーストリア軍のクッテンベルクへの進路を塞げと命じ、大王軍はそのままクッテンベルクに向かった。 補給部隊を切り離して行軍を始めていた若デッサウは、新しい命令を受け取りつつ大王軍の後を追ってポードホーツァンに達し、そこを占拠していた敵の軽歩兵を砲で追い払ったが、直後すぐ近くのローノウにカール公子軍本隊がいるのを発見した。プロイセン軍の斥候はヴィリモウを偵察はしたが、そこから北に行軍するカール公子軍を発見し損ねていた。 若デッサウは優勢な敵軍を目前に控えてこのままでは危ういと判断し、すぐに自軍に合流するよう大王に報告するとともに、チャスラウへの先着は難しいと見てその北のコトゥジッツに向かって休みなく行軍した。チャスラウ周辺にはすでにオーストリア軍の軽騎兵、軽歩兵が展開していて、これを押しのけながらの行軍はプロイセン軍にかなりの時間を要させた。一方のカール公子軍では、突如出現した若デッサウ軍の兵力が不明で、地形的にもローノウから北に向けては攻撃が困難と判断し、攻撃を見送った。 夜、コトゥジッツ村周辺を確保した若デッサウ軍は、その北に陣地を敷き、シュヴェリーン連隊を村の中に入れた。最初に送った伝令がオーストリア軍に捕らえられたために大王軍からの返事がなく、若デッサウはビューロウを使者に送って再度合流を求め、また食糧を携行して来なかったのでその補給を求めた。腹を空かせた兵士は薄い麦粥を啜ってその場をしのいだが、オーストリア軍の軽歩兵が周辺をうろついて彼らの休息を妨害しようとした。 このころ大王軍は、カール公子軍との距離にまだ余裕があると見ていたので、クッテンベルクを占領したあとコリンに兵を送ってエルベ川からの補給路を開設するなどしていたところで、深夜にビューロウが到着して若デッサウの危機を報告したことでようやく大王は実際の状況を認識した。大王は当座の食糧をすぐコトゥジッツに進発させ、軍は夜明け前に出発して朝の合流を図ることにした。 一方カール公子は、ナーダジュディのフザール部隊からプロイセン軍はクッテンベルクに宿営しているとの報告を受け、これに攻撃をかけるべく夜間行軍を行うことにした。オーストリア軍はローノウの陣地に車両やテントを残し、チャスラウへ行軍した。うまくいけば、モルヴィッツの戦いのときナイペルクが突然の敵の出現に直面したようにプロイセン軍に予期しない攻撃をかけることが出来るはずだった。 5月17日早朝、カール公子軍はチャスラウに到着し、さらにここからクッテンベルクに向かうためチャスラウの町を通り抜けていた。しかし午前5時ごろ、オーストリア軍先鋒部隊はチャスラウの北を流れるブルシュレンカ川付近で若デッサウの警戒部隊と接触し、これと交戦した。オーストリア軍は16日の遭遇の後も若デッサウ軍の位置を把握していなかったのでこの接触は予定外で、カール公子とケーニヒスエッグは戸惑ったが、計画を変えて目前の敵を攻撃することにした。オーストリア軍はコトゥジッツ目指して北上するが、ブルシュレンカ川の渡河に手間を要して結局攻撃準備が整う頃には朝になってしまっていた。こうしてカール公子は敵が分散しているうちに攻撃する機会を逃した。
※この「両軍の機動」の解説は、「コトゥジッツの戦い」の解説の一部です。
「両軍の機動」を含む「コトゥジッツの戦い」の記事については、「コトゥジッツの戦い」の概要を参照ください。
- 両軍の機動のページへのリンク