両軍の移動
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宣戦布告の時点でサルデーニャ王国に駐留しているフランス軍はおらず、フランスは南仏にも戦力を分散させていたとはいえ同じく列強であるオーストリア帝国に対抗できるほどの軍事力の重心はパリを中心とする北部にあった。そのため、フランスは世界初の軍用列車の大規模使用を敢行して自軍を素早くピエモンテに移動させた。オーストリア帝国軍はフランス軍がピエモンテに到着する前により弱体なサルデーニャ軍(イタリア語版)を撃破して戦争終結を目指したが、ロンバルディアのオーストリア軍指揮官であるギュライ伯爵(ドイツ語版)は慎重に、ティチーノ川周辺を特定の方向もなしに行軍、やがて渡河して攻勢を開始した。彼にとって不幸なことに、大雨が降り始めてしまい、サルデーニャ軍(イタリア語版)は稲田を水没させてオーストリア帝国軍の進軍を遅滞させた。
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両軍の移動
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1942年5月28日、アメリカ海軍太平洋艦隊司令長官発の作戦計画に従い、エンタープライズ、ホーネットを基幹とする第16任務部隊(TF-16)が真珠湾を出撃し、続いて5月30日には第17任務部隊(TF-17)も基幹となるヨークタウンの緊急修理の完了を待つ形で真珠湾を出撃。死守命令を受けたミッドウェー島守備隊を助けるため一路ミッドウェー島を目指し、来襲する日本軍を待ち構えた。 1942年(昭和17年)5月27日(日本の海軍記念日)、南雲忠一中将率いる第一航空戦隊(赤城、加賀)、第二航空戦隊(飛龍、蒼龍)を中心とする第一航空艦隊(通称「南雲機動艦隊」)が広島湾柱島から厳重な無線封止を実施しつつ出撃した。5月28日、ミッドウェー島占領部隊輸送船団が水上機母艦千歳、駆逐艦親潮、黒潮と共にサイパンを出航した。海軍陸戦隊(大田実少将)と設営部隊、陸軍からは一木清直陸軍大佐率いる陸軍一木支隊が乗船していた。船団は第二水雷戦隊(旗艦:軽巡洋艦神通)他に護衛され北上した。5月29日、連合艦隊長官山本五十六大将が直卒する主力部隊も広島湾柱島を出撃した。三和義勇大佐(連合艦隊作戦参謀)は「今は唯よき敵に逢はしめ給えと神に祈るのみ。敵は豪州近海に兵力を集中せる疑あり。かくては大決戦は出来ず。我はこれを恐れる」「長官から兵にいたるまで誰一人として勝利についていささかの疑問をいだく者はいない。戦わずして敵に勝つの概ありと言うべきか」と日記にしたためている。 5月30日、日本輸送部隊付近の米潜水艦がミッドウェーに長文の緊急電を発信し、日本はこれを傍受した。宇垣(連合艦隊参謀長)は、輸送部隊を発見して報告するものとすれば、敵が備えるところとなり、獲物がかえって多くなると考えた。また、宇垣は、アメリカ軍の緊急交信が従来の例を見ず、ミッドウェーに向かっていることがばれている可能性もあるが、いずれにせよ変更はしないと考えた。連合艦隊が何の対応も取らなかったことはこれ以上なく悔やまれることで、南雲艦隊に空襲を中止させ、米機動部隊を撃滅する方法もあったという意見もある。 6月3日午後、南雲機動部隊に追従する主力部隊旗艦大和に乗り込んだ連合艦隊司令部敵信班はミッドウェー島付近で敵空母らしい呼び出し符号を傍受した。回虫から来る腹痛に悩まされていた山本だが、直ちに南雲機動部隊に通報するよう参謀に伝えた。だが「無線封鎖を破れば敵に位置を知られる」「南雲機動部隊の方が近く同じく傍受したはず」という判断から見送られた。連合艦隊首席参謀黒島亀人大佐によれば、4日頃に(大本営からの連絡、又は通信傍受で)ミッドウェーに機動部隊がいる兆候をつかみ、山本長官が一航艦に知らせるかと尋ねたが、黒島は無線封止の優先、一航艦が搭載機の半数をもって反撃に備えていること、機動部隊も兆候をつかんだであろうことから、知らせないように具申したとして自分の失敗であると話している。連合艦隊航空参謀佐々木彰中佐によれば、4日に通信呼出符号を傍受したという。しかし南雲機動部隊は傍受しておらず、予定通りに作戦を続けた。この件を取材した亀井宏によれば、黒島参謀を含めて連合艦隊、軍令部、第六艦隊、全員の証言が一致しなかったという。 日本時間6月3日午前10時30分、南雲機動部隊は深い霧の中で混乱し、旗艦赤城は飛龍、蒼龍と2戦艦(榛名、霧島)の艦影を見失った。飛龍と霧島は衝突しかけたため、司令部では無電を使用するかどうか議論があったが、長波無電を使用して艦隊の針路を定めた。無線の使用によりアメリカ軍が南雲部隊の行動を察知したという説が日本側にあるが、アメリカ軍側にこの通信を傍受した記録はない。6月4日午前3時37分、南雲部隊は補給隊と駆逐艦秋雲を分離した。午前10時25分、南雲司令部は各艦に「敵情に応じ行動に変更あるやも知れず」とし、制空隊の集合や収容に注意するよう通達を出している。午後4時30分、赤城と利根がアメリカ軍機らしき機影を発見すると、赤城から3機の零戦が発進して迎撃に向かった。南雲機動部隊は、誤認の可能性が高いと判断している。午後11時30分、赤城は雲間にアメリカ軍機を発見して総員を戦闘配置につけたが、その後は平穏に過ぎた。赤城では日本軍輸送船団が爆撃を受けた(後述)ことを知り、またアメリカ軍索敵機を撃墜できなかったことでミッドウェー基地に対する奇襲効果が失われたことを悟ったが、米空母が出撃してきていることには考え至っていなかった。
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